hamabi芸術祭

社会人向け絵画教室

絵画空間史講義録 昼間部生対象絵画空間史より、授業の抜粋記事

「ロマン派から印象派へ」

2011年11月25日UP!

参考図版:グスタフ・クリムト「接吻」1907〜8年


今日は、とうとう今年度の空間史の最終回です。前回はダビッド・アングルを中心に、フランス革命と新古典主義の辺りを話しました。特に、古典主義の立場で厳格な規範をもとに作品を制作したアングルは、こんな言葉を残しています。「線を描きなさい。多くの線を。自然からではなく、記憶や巨匠たちの彫刻から描きなさい。」まさに古典主義者アングルの面目躍如というところですね。このアングルと、同時代でありながらまったく異なる立場を取ったドラクロアは、お互いの立場を譲らず公然と論争を繰り広げたほどです。


新古典主義の厳格なスタイルは、テーマは何であれ当時の人々に心から満足できるものではなかった。逆に、ヴェネツィア派やリューベンスなどの作品の持つ豊かな色彩とダイナミックな空間表現や、東洋風の異国趣味が求められ、ロマン派と呼ばれるスタイルの作品が生まれたわけです。ちょっと思い出してほしいのは、この名称について。またローマをイメージさせる名前が出てきた。ロマンチックとかローマナイズとか、何かにつけてヨーロッパの人たちの心のルーツが、ローマにあることをまたもや感じさせるね。


今まで何度か引っ張り出したけど、もう一度世界通史の年譜を出してみてください。これを見ると、今日話すところは、日本では江戸後期、中国は明末期ですでに中国には盛んにヨーロッパ列強の手が伸びてきている時代だ。イギリスはとうに東インド会社を設立して、インドを支配下に置いて中国を狙っている。東南アジア一帯から中国まで、欧米列強の手が伸びてきているわけで、近代国家に装いを変えたヨーロッパの国々の覇権争いが始まっている。


ドラマなんか見てると、江戸末期に浦賀沖に黒船が来るまで、日本中のだれもが外国のことなんか知らなくて興味なくて、突然黒船が来て腰が抜けたみたいな話になってるけど、本当はそんなことないんだ。それまでにもロシアが何度か日本に来て通商を迫ってきているし、外国で何が起こっているか、少なくともある程度の情報は入ってきていた。だから、日本も遅かれ早かれ国としてどういうスタンスで諸外国に対処するか、態度を決める必要があったし、その為に必要な政治や経済の仕組みを整える準備が必要だった。でも、今でも似たようなものだけど、まあ大丈夫でしょうという根拠のない先送り主義というか、目先の問題に対処していくということに明け暮れて、結局慌てふためいて大騒ぎになったという訳。


イギリスは、対中国貿易の赤字解消のための交渉に端を発して、植民地のインドから大量に輸出していたアヘンの輸入を中国が拒否したことから、とうとうアヘン戦争を起こして中国を叩きのめしてしまう。アヘンというのは麻薬だね。この時代は、中国にはアヘンが蔓延して中毒患者が急増して国力がひどく低下するんだけど、実はイギリスでもアヘンは使われていた。法的に禁止されていたわけじゃなかったんだ。後で話すけど、イギリスにラファエロ前派とよばれる画家たちが出てくるんだけど、その中の一人ロセッティ―の奥さんは、アヘンチンキの過剰摂取で死んでいる。


この時代は、えらく昔みたいに思えるだろうけど、それやこれや考えていくと、実はもうかなり現代と同じような問題が国家間で起こり始めた時代だね。ここで使っている国家という言葉は、現代使われていのとほぼ近い意味だけれど、例えばロココから新古典主義に至るフランス革命の前のフランスやその他の絶対王政の国とは違う。国って何だろうっていう定義は難しくて、なかなか一筋縄では理解ができないけど、でもこれ以降の世界は明らかに国家と国家がぶつかり合っていくわけだから、一応簡単に理解しておこう。


地域が発展して労働力や経済の結びつきが強くなると社会、つまりソサイエティーができる。そこから言葉や文化の共通圏に広がるとコミュニティーが生まれる。そのコミュニケーションの密度が増すと国、カントリーができる。そこに住む人たちが自分たち独自の統治機構を持つことで国家、ネーションができる。このネーションを国民国家と呼んでもいいんだろうけど、これが近代国家だ。この近代国家という得体の知れない存在が独り歩きし始めて、国家と国家の利害の対立が大きな悲劇を生んだのが20世紀だとも言えるね。


18世紀後半から19世紀というのは、急速に科学が進歩して産業規模が拡大して都市化が進行して移動手段も進歩したことで、世界が急に狭くなっていった時代だ。ちなみにこの時代には、多分みんなも名前くらいは聞いたことのある人たちが大勢活躍している。哲学者のカントやヘーゲル、文学ではスタンダール、バルザック、ビクトル・ユーゴー、経済学者のアダム・スミス、音楽家では、メンデルスゾーンやベートーベン、ワーグナー、リスト、ショパンなどなどだね。ドラクロアは、ショパンの愛人だったことで有名なジョルジュ・サンドやリストなどと深いつながりがあったことも知られている。


ドラクロアの「民衆を率いる自由の女神」という作品は良く知られているけど、この作品の躍動感のある構図や積極的な色彩効果の導入は、まさにロマン派の典型といっていいものだろうと思う。アングルとはあまりにも対照的な画家というのは一目でわかるよね。このドラクロアが高く評価していたのがスペインの画家、ゴヤだ。


ゴヤは、カルロス4世お抱えの宮廷画家だったんだけど、やがてその地位を自ら退くことになる。46歳の時に完全に聴覚を失ったこともあって、次第に世界の暗部に強い眼差しを向けるようになるんだ。まだ主席宮廷画家だった時に、「カルロス4世の家族」という肖像画を描いているけれど、こんなの描いて大丈夫だったのかなと思えるほど、横一列に並ばされた王家の家族の肖像は、覇気のない腑抜けの王と底意地が悪く狡猾そうな王妃の周りを、子供たちや親族が取り囲んでいる様子が描かれている。ハイ・ポーズって言って撮影した集合写真でもこれは没でしょ、というくらいの代物だ。


ゴヤには、ナポレオン軍のスペイン侵攻による惨状に目を留め、近代社会の混沌と人間の暴虐を告発する「1808年5月2日」という作品がある。銃殺刑の場面を描いたものだね。事実に基づいて描かれたこんな絵は、ロマン派以前には考えられなかったものだね。


さて、この時期にはもう一つ記憶すべき作品を生み出した人たちがいる。イギリスのコンスタブルとターナーだ。イギリスは、以前から王室のオランダ王室との姻戚関係などを通じて、フェルメールをはじめとして風景や静物を主題にして絵を描く画家の多くいた、フランドルの絵画の影響を受けていて、二人とも、風景そのものを主題としてまとまった量の作品を作った、最初の人たちの中にいる。


17世紀末のイギリスには、既に「ピクチャレスク」という概念が生まれていた。最初は絵のテーマとしてふさわしいといった程度の意味だったんだけど、やがて、不規則さや絶え間ない変化がその特徴だとされるようになって、イギリスでは美や崇高さの概念に並ぶもう一つの価値としてみなされるようになったんだ。これはターナーにも大きな影響を与えていて、ターナーは、大地や樹木や建物などを風景の対象とするよりは、むしろ光や大気や湿度のように具体的に目に見えるもの以外に、人が感じ取れるものを風景の中に表現しようとしたように見える。


さっきも言ったように、この時代は、それ以前と比べるとかなり都市化が進行してきて、それに批判的な人達も出てきていた。ある意味これなどは、現代の都市住民の自然回帰を思わせるような風潮だけど、農村に残る、長い間続いてきた農夫たちの素朴な営みに崇拝にも似た眼差しを向ける画家たちが表れてきた。バルビゾン派と呼ばれるこれらの画家たちの中に、コローやミレーがいた。特にミレーの「晩鐘」とか「落穂拾い」は、日本人に人気のある作品だね。


革命の嵐が吹き荒れるヨーロッパでは、古い体制に疑問を持つ人々は、その古い体制に支えられてきた価値観に対しても当然疑いを持つわけだ。ルイ14世の時代に設立された官立の美術学校と官設の展覧会では、神話と宗教をテーマにすることが高尚なことであり、風景や人々の風俗を描くのは低俗なこととされていたんだ。また、画面上に筆触を残さないのが完成(フィニー/Finir) であり、そうでないものは習作(エスキース/Esquisse) と呼ばれた。そうした価値観に反抗して、身の回りの風景や人々を忠実にしかも筆致を生々しく残して描こうとする画家が現れる。それがクールベであり、ミレーだった。


印象派の足音がはっきりと聞こえてきたね。


クールベはとても激しい性格で、古いスタイルの作品に対して厳しく攻撃した。時の権威にあわよくば取り入って出世したいなどとは露ほども望まなかった。「こんにちはクールベさん」というタイトルの絵があるけど、イーゼルを乗せた絵具箱を背負ってふんぞり返っているクールベの前で、一人は脱帽して軽く会釈をし、もう一人、深く頭を下げて挨拶している二人の男が描かれている。この二人は、実はクールベにとってはとても大切なパトロンで、まるでクールベは、優れた画家である自分に人が頭を下げるのは当たり前だといわんばかりだ。例えパトロンだとしてもね。


その割には、クールベの描く絵そのものは、保守的な人が見て思わず目を背けたり不快だと感じたりするタイプのものではなく、堅実なデッサンに裏付けられた写実的なものだった。


一方で、本人は、人々からできれば権威のある機関や人からも称賛されたいと願っているにもかかわらず、作品がそういう人たちの感情を逆撫でせずにはおかないほど過激だと見られたのが、マネだった。マネがどこまで自分に理解を示さない旧弊な人々に攻撃的だったのかは判らないけど、クールベのようなスタンスではなかったのは、マネの書き残したものからも明らかだ。それでも作品はことごとく物議をかもした。


「オランピア」が娼婦をモデルにして売春宿を描いた不道徳な絵だと非難されていた時、クールベは一人、彼が描いたものはスペードのクイーンだよと言ったというんだ。これはどういうことかっていうと、「オランピア」は明らかにティッツァーノの「ウルビーノのビーナス」を引用しているけれど、「ウルビーノのビーナス」がビーナスの裸体を精緻な陰影法を使って描かれているのに対して、マネは「オランピア」の裸体を平らな乳白色の色面で描いている。


マネは、人間の肉体のボリュームのある立体感を、陰影によって表現するのではなく、あえてそれに目をつむって色面で表現しようとした。つまりクールベは、マネがトランプの絵札に描かれているクイーンのように、フラットに人体を表現しているということを言いたかったんだね。マネが望んだのは、そこを見てもらうことだったのに、インモラルだという視点だけで非難されて、スキャンダルになってしまったということなんだろうね。


こういう見当外れの非難というのは、芸術だけではなくいろんな世界で普通にあることだけど、やられる方はたまったもんじゃない。


1863年に、サロンという官設の展覧会に出品してその古い基準で審査された画家たちが、サロンで落選したことを逆手にとって落選美術展というのを開く。これには、自分が政治的に革新的な立場だということを宣伝したいナポレオン3世が後押しするんだけど、ここでマネの「草上の食事」が、2年後の1865年には「オランピア」が叩かれた。その後もいろいろな紆余曲折があって、より戦闘的な方法を選んで作品を発表すべきだというモネが中心になってグループ展を開いた。そこに出品されたモネの「印象、日の出」という作品に、当時の批評家が冷笑的な批評記事を新聞に載せてそこから「印象派」という名前が付いたんだ。印象派には実に沢山の画家が参加しているけれど、代表的な人は、モネ、ピサロ、シスレー、ルノワール、ドガなどがいる。もちろんこれはほんの一部だよ。


印象派が、絵のテーマから絵の具の使い方から色彩の自由さに至るまで、ルネッサンス以来の絵画の伝統を破壊したというのは、画家個人の中から起こった出来事だというのはもちろんだけど、それ以上に、時代の避けがたい変革のエネルギーの反映された結果だということは感じてもらえるかな。


ちなみに、初めにちょっと触れたラファエロ前派っていうのは、この時期にイギリスでごく短い間活動した人たちで、これもまたある意味では、伝統的な絵画の価値観に疑いを持った人たちの運動だった。表向きは、長い間理想的な絵画をラファエロのそれに求めてきたのに対して、それこそがマンネリに陥る元凶だと非難して、むしろラファエロ以前の作品に立ち返って新しいスタイルを探すべきだという主張だったけど、実際にはかなり過激な反体制の秘密結社みたいなところがあって、内部分裂した。ロセッティーとかミレーなどがいる。


印象派の後期の時期には、オーストリアには、象徴主義といわれる人たちが出てくる。ある意味では、見えるものしか描かないと言ったクールベの真逆の主張の画家たちで、人間の精神や魂など目に見えないものの中にこそ、絵画が表現すべき真実があると考えた。実際にモローは、見えないものしか描かないって言ってる。ギュスターブ・モローとか、ルドンなどがこのタイプの画家と言えるだろうね。象徴主義が、見えないものや人間の内面の表現を目指したというのは、ある意味で現代につながる試みだったから、20世紀初めまでこの試みは続いていったんだ。見えるものから見えないものへっていうのは、近代から現代の否定できない大きな潮流のようなものだからね。今日はここらで、象徴主義の代表的な画家の一人、クリムトの図版を配るよ。


最後に今日話しに出てきた人たちの作品を、ドラクロアからプロジェクターで見せるね。


ひとつオマケ。今図版を配ったクリムトが先生をしていた美術学校を、ある年に二人の受験生が受験したんだ。一人は見事合格して、後々になってクリムトの装飾性が嫌われてきたとき、それに代わって注目を集めるようになったエゴン・シーレ。もう一人は次の年も不合格で、結局自分の絵の才能を見限って画家になる夢を捨ててしまった、アドルフ・ヒットラー。


それじゃ、この辺で空間史のレクチャーを終わりにします。一年間、熱心に話を聞いてくれてありがとう。