我が家には庭というものが全く無い。だから草花を育てるということになれば、鉢植えでということになるのだが、ホームセンターで売っている鉢植えの草花は、どこかファミレスの揚げ物料理のような脂っこい感じがして、私はあまり好きではない。特に枯れた後の、不揃いに伸びた茶色の茎が風に曝されているブラスチックの植木鉢には、微かに使い捨ての悪意の名残が見えるようで、買わなければいいのにと思ったりする。
二年ほど前に、妻が海の近くにある大きなホテルの敷地の中に、かなりの規模の植木屋があるということをどこかで聞きつけてきて、一度一緒に行ってほしいと言った。断る理由が上手く見つけられなくてついていったその植木屋は、確かにそこいらのホームセンターにくっついているものと比べれば、数倍はあるかと思われるような大きさだった。あれこれと植木鉢を見て回る妻をほったらかしにして、ぶらぶらと散歩がてらに敷地内をうろついていると、高さが私の背丈ほどもある檸檬の木が目に入った。
実の成る樹というのは、なぜか私の鉢植えコンプレックスの虚を衝いた。その檸檬の樹は、今はさほど広くもない我が家の二階のベランダで、春に小さな花をつけた後ゆっくりと時間をかけて、小振りの実をいくつか付けている。
今年は、その檸檬の樹に虫がついた。葉が茂ってきたなと思ったら、2-3日のうちに樹の下の部分からほとんどの葉が無くなってしまった。よく見ると、大きいもので2センチぐらい、小さいものは数ミリほどしか無い無数の茶色や黒の虫が、葉にしがみついて食べている。妻や娘は、お決まりのように気味悪がるばかりで何もせず、私に取れという。しかも、殺虫剤で殺したりつまんで潰したりするのは可哀想だから、袋に入れて隣の森に放せという注文付き。この偽善者達め、と悪態をつきながら、私はビニール袋を持って、割り箸で葉にくっついている虫の中の比較的大きめの奴をつまんだ。
割り箸の先に暖かくて柔らかい(確かに暖かいという感じがした)感触が伝わり、二本の割り箸の先が虫を挟んでわずかにずれたのと同時に、あたりに濃厚な草いきれのような匂いが漂った。その途端に、私は不意に湖のほとりの草むらの中で、ふざけて転んだ弾みに手のひらで青虫を潰してしまったときのことを思い出した。粘りのある茶色の混じった青虫の内蔵は、とても気味が悪くて、急いで近くの雑草に擦り付けて何度も何度も拭ったが、そのことよりも直に自分の手で潰してしまった青虫が、しばらくの間体を丸めたり伸ばしたりを激しく繰り返しながら、のたうっていたのに衝撃を受けた。はっきりと手のひらに、その虫の感触が残っていた。
心の記憶は、時間とともに少しずつ温度や色彩を変える。そのときには重さに耐えられないとさえ思えたことも、いつか胸の中心からどこか他の場所に居所を移し、湿り気のある皮膜にくるまれてしまう。
それに比べて肉体の記憶は、いつまでも生々しく原型に近い形で刻まれたままなのかもしれない。突然、何かをきっかけに皮膚の裏側からプリントアウトされてくる。
誰かこんな不思議な記憶のメカニズムを、きちんと教えてくれる人はいないだろうか。

