日が沈んで辺りが暗くなると、秋の虫が驚くほど大きな声で鳴くようになった。明け方にはまだ蝉の声が聞こえるから、ちょうど今は季節の変わり目ということだろう。春夏秋冬の季節の変わり目の中で、夏から秋への変化は、他の季節の変わり目と違って、境界がはっきりしないという印象がある。季節はいつだって行きつ戻りつしながらゆっくりと移り変わっていくものなのだろうが、それでも、春の終わりや秋や冬の終わりには、なぜか境目があるような気がする。ある日を境に、あくる日から次の季節に変わったというような感じがあって、その日以降に思いがけない寒さや暖かさの日があっても、それは、一時的に境目を越えた、季節の戻りだという風に感じられる。夏はいつも逃げ足が遅い。
そういえば、正確な記憶ではないが、昔読んだ誰かの詩に、「冬が来た。きっぱりと冬が来た。」というような一節があったような記憶がある。言葉というのはすごいな、と感じた詩のひとつだが、もちろん私が感じるのは「きっぱりと」というほど硬質な境界ではない。もしかしたら、あの詩は北国で詠まれたものかも知れないと思う。
最近の夏は、メディアが盛んに温暖化と結びつけて報じるものだから、このところ年々暑さが増していくような気にさせられるが、大体、暑いとか寒いとかいう感覚ほど曖昧なものは無いと思うから、実際にはどうだかわからない。私は山陰の町で生まれて育ったから、記憶の中では、夏の間の湿度と温度の高さはほとんど耐え難いと思えるほどだった。毎年夏の盛りには、ありったけの想像力を巡らせても冬の寒さがどうしても実感できなくなり、こんなに暑いのに比べたら寒い冬のほうがずっとましだと、愚にもつかないことを毎年毎年繰り返して考えていた。特に何に対してということはないが、ここは嫌だ、早くここから出て行きたいといつも思っていたから、余計にそういう感触で記憶されているのかもしれない。
とはいえ、冬の障子張りの建具が、夏にはすべて葦ず張り(よしずばり)のようなものに換えられ、家族は全員、敷布団には寝茣蓙(ねござ)と呼んでいた絵入りの畳表のようなものを敷いていたから、実際によほど蒸し暑い夏が当たり前のところだったのだろう。今では寝茣蓙など多分どこにも売っていないかもしれないが、汗ばんだ体で布団に寝転ぶと、ひやりとした柔らかい畳表の感触が心地よく、かすかにイグサの匂いがした。夏に高熱を出して何日か寝込んだことがあって、鼻先で嗅ぎ続けたその匂いが悪夢と結びついてしまったためか、今でもイグサの匂いはあまり好きではない。
稲刈りの後の遠くの田圃で藁を燃す匂いや、ちらちらと雪が降り出したときの匂い、雨上がりの朝の濡れたアスファルトの匂いや、澱んだ空気の場末の映画館から一歩外に出た時の匂いなどは、ある種の麻薬のような作用を持つ。それによって幻想のような場面が目に浮かぶのか、それ自体が幻想なのかはわからない。住まいから直線距離で一キロばかり離れた国道一号線沿いに、第一パンと山崎パンの大きな工場がある。早朝には、焼き上げたパンの香りがすることもあるし、夜9時過ぎに帰宅すると、かすかにイーストの発酵の香りが漂っていることがある。嫌な香りではないが、この匂いからはどこにもスリップできない。

