外は生暖かい風が時折強く吹いて、降ったり止んだりの雨が鬱陶しい。予想では関東地方に接近しつつ東に逸れていくということだが、また台風が接近してきている。アメリカでは、つい数週間前に「カトリーナ」と名づけられた台風がニューオリンズの街を沈めたばかりなのに、今度は「リタ」さんにまたまた襲われているとか。実在の小学生のカトリーナちゃんやリタちゃんは、いじめられたりしないのだろうかと、どうでもいいようなことを想像してしまう。
子供の頃に、一度だけ集中豪雨で近くの湖があふれて、床上浸水というのを経験したことがある。あっという間に玄関の土間から畳に届くほどの嵩に水が増えて、家族全員で慌てて一階の部屋の畳を積み上げて、その上に箪笥や何やらを抱え上げてから二階に避難した。二階に上がる前に、父が、一階のすべての部屋の窓や戸を開け放したのを見て、なんという事をするんだと思ったのを覚えている。今思えば、父は、濁流に家ごと押し流されるぐらいなら、にわか仕立ての高床式の住居にして水を通してしまったほうがいいと判断したのかもしれない。水の流れが落ち着いて引き始めるまでの間、何故かちょっとわくわくした気分もあって階段の上から覗いていると、錦鯉が泳いでいた。後で聞いた話では、料亭の庭の池から高価な錦鯉が逃げてしまい、捕まえてくれた人には懸賞金を出すということだったらしい。もちろん、あの錦鯉がそうだったかどうかはわからないが、家の中を鯉が泳いでいるという非日常的な体験の中では、私にとっては、あれは間違いなく料亭の鯉だということになってしまった。
まさかそんなことなどと思うことでも、起きる時はあっけなく起きてしまい、中には取り返しのつかないほど決定的な出来事もあって、人というのは、結局それに慣れて受け入れるしかないんだという人がいる。とうに亡くなった祖母はそういう類の人で、父の昇進が決まった時にも、姉の離婚が決定的になったときでも、実に絶妙なタイミングを見つけて、「良くて3年、悪くて3年・・」と呟いては周りのひんしゅくを買っていた。まさか私はそれほど達観してはいないが、どこかに「ゆく川の流れはたへずして・・」という気分がしっくりと来るところはある。いいことも悪いことも、時間を氷漬けにしてしまい、未来永劫そのままの状態で据え置くなどということは、とてもじゃないが信じられない。
Still lifeというのは、「静物画」のことだ。「静止しているものという」意味だろうが、私には「止まった命」のイメージのほうが強い。ものごとの本質を見極めるためには、何とかして対象の動きを止めて、じっくりと隅から隅まで観察して分析して、完全に支配しないと気が済まないという、「知」への強烈な欲望が裏側にあるような気がしてしまう。確かにそういう超人的な意思に支えられた絵画を、とっさに思い出すだけでも、古いヨーロッパの作品には幾つかあるような気がする。情けないことに、そういう強靭な意志をおよそ持てたことがない私は、世界を無理やり動けなくしてまな板に貼り付けるよりは、変化し続けることを目撃するということのほうが、ずっとリアルに感じられてしまう。一旦完成した作品を、きちんとデータ化して整理保存したり、作品そのものを大切に保管したりするということにほとんど興味がないのは、そのせいだろうか。

