毎朝、風呂場の中に本を持ち込んで、お湯から出たり入ったりを繰り返しながら一時間近く過ごすということを、もう十数年続けていて、そのおかげか、めったに風邪らしい風邪を引くことはないのに、今年は珍しくひどく咳の出る風邪を引いてしまった。それもいつまでも痰の切れない底の深い咳なので、そろそろ咳をする度に左の肋骨のあたりに鈍い痛みが出るようになってきた。

二年ぶりに、パイプオルガンのリサイタルで、オルガン演奏に映像でコラボレーション参加。本番中に大声でゲッホゲッホやるわけにはいかないので、かなり覚悟して臨んだのだが、幸いなことに演奏が始まってからはパソコンの操作が忙しくて、まったく他のことについては意識不明状態であったため、咳をするのは忘れていたらしい。演奏中はまったく咳が出なかった。終わった途端にわざとらしく咳き込んでしまったが、他意はない。演奏家のコンセプトは、バッハとアランの二人の作曲家の作品による二部構成で、必ずしもそれらを対比的に扱うのではなく、むしろ時代や状況を超えた人と音楽との出会い方として、通底していることがらを表現したいというもの。何だか難しい話なのだが、私なりにその意図を踏まえて、ポスター原画制作から始めて約半年の間、動画や静止画の映像素材の収集と編集を重ね、全体の展開をシミュレーションして結構綿密なシナリオを作り、細部は本番で即興的にエフェクターを操作して画像を加工し、オルガンの露出しているパイプの部分に投影していくというやり方を採った。ところで、その場のでまかせでやることは即興とは言わず、ただのでたらめに過ぎないから、本番での即興的な操作と言っても、ほとんどエフェクターでの画像の加工の内容も決めてしまっている。本番前に仮に完璧なゲネプロをやったとしても、本番での演奏はまったくそれと同じというわけにはいかない。だからと言って、ライブで何かやろうというのに、最初から何かの再現のつもりでやるなどというのは真っ平である。事前に完璧と思えるほどの準備ができてはじめて、本番でそれを裏切ることができれば、まともな即興がやれるということになる。

そのオルガニストとのコラボレーションは、今度で四度目なので、先方はある程度私がやることは予測できているし、メールの文面の背後には本当に大丈夫か?という不安が見え隠れするものの、表向きは、画像に関しては全面的に私を信じて委ねてくれているように見える。それでも、本番が近づいてくるにつれて、ナーバスになっているのは明らかで、ろくに楽譜を読むこともできない私のために付けるアシスタントのことや、その他あれこれと気がかりで仕方がない様子である。私はといえば、本当は人知れず気を揉んでいたパソコンとプロジェクターのシステムの問題があり、それが前日のリハーサルで的中!!一時はもう完全にアウトか、と思うところまで追い詰められたのだが、その大ピンチをオルガニストの耳に入れないまま何とかクリアして、ほっと一息。昔から、作品の展覧会場への搬入・現地制作などで、一度も万事休すと思わないで最後までやれたことが無い。

コラボレーションという言い方は、いつ頃から一般的になったのだろう。最近は、お揃いの服を着ていてもコラボレーションなどと言ったりするようだから、要するに共同で何かやればそれでいいのだろうが、感覚的には、私は異種同時成立というか、そんなようなことを感じている。ただし、異なるもの同士が同時成立することで、渾然一体となって盛り上がるというようなのは困るのだ。お互いが、それぞれ角張ったところを包んで、欠けた部分を補い合い、単独では出せない魅力を発揮するというような、言わば鰤と大根、昆布と大豆のような関係は、そういうことの好きな仲良しグループがやっておれば良い。私にとってあらまほしきコラボレーションとは、互いに自らの矜持を保ちつつむやみに譲り合うことや支えあうことなど考えもせず、同時にある必然を疑わない「天ざる」のようなものである。

ただ、悲しいかな、天麩羅とざる蕎麦とそれぞれの味がちゃんとわかる人は少なく、そういう人は天麩羅と蕎麦を別な機会に食べることが多いのだ。