記録的な大寒波だそうだ。日本海側は、ところによっては早くも2メートルを超える積雪らしい。ウインタースポーツのビジネス以外のほとんどの豪雪地帯の人にとって、雪は、日常的な生活を続けるために、戦い続けなければならない憎むべきもので、その雪との戦いのゴングがこうも早く鳴ってしまうと、これから試合修了までの時間の長さと身体のきつさが思いやられることだろう。当然、そういった地域は高齢の人が多い訳で、待った無しの雪下ろしに対応できる人ばかりではない。貧血・腰痛の私には、その辛さは他人事とは思えない。

ほんの2・30年前までは、今よりもずっと冬の寒さが厳しくて、私の生まれた山陰でも毎年結構しっかりと積雪があった。豪雪地帯といわれるところほどは積もらないが、それでも膝上ぐらいまでの積雪はしょっちゅうだったし、1メートルほど積もったということも何度かあったと記憶している。朝早くに父に起こされて、2階の窓の内側の障子を開けると1階の台所の屋根の上に積もった雪が目の前を塞いでいた。建具の開け閉めが窮屈になってきていて、屋根の上に乗っているものの量を想像して、なんだかすごい圧迫感と閉じ込められたような恐怖感を感じたものだ。当時、電話局の工事課長か何かだった父は、それからしばらくの間、どことは知れぬ山の中の、雪の重みで断線した電話線の復旧に駆り出され、家を留守にした。山陰の冬は、日照時間がとても少ない。極端な低温になる訳ではないが、朝の気温と日中の気温にあまり差がなく、どんよりと曇っていて、時々雪がちらつくというのが基準である。だから、小学生のときに定期購読させてもらっていた小学◯年生という雑誌の、1月号の挿絵や付録の絵が、晴れた屋外で羽根つきしていたり凧揚げしていたりするのが不思議で仕方なかった。天気予報で「表日本は大体晴れ、裏日本は曇りか雪でしょう。」と聞いても、晴れて雪の降らない冬というのが、どうにも想像できなかった。

そういえば、最近は裏日本という言い方をしなくなった。「裏」という語感が悪いということなのだろうか。この手の、上辺だけ繕う言い換えは今に始まったことではないが、そういえば、山陰も語感が悪いから北陽と言い換えようという馬鹿馬鹿しいことを、県の役人か商工会議所の年寄りが、昔言っていたような気がする。浪人を高卒と言い換えても、無職をフリーターと言い換えても中身は変わりゃしないし、むしろ自分の足下を見定めるには言い換えなんぞしない方がいいと思うのだけれど。裏方とか裏箔とか、なかなか味のある言葉もあるし、少なくとも裏日本の「裏」は、そういう類いの意味として引き受けておけばいいのに。「裏」は、裏社会の「裏」のような意味しか持たなくなってしまってきているのだろうか。言葉が、どんどん単調になってきているのだろう。

数週間前に、落葉樹の葉が一斉に散って、最近は小枝の先端が寒風の空に突き刺さっているのがしっかり見えるようになった。あの細い枝先は、何かはっきりとした理由があってあの位置に伸びているのだろう。大地の中に伸びていく根が、地上の幹を支えながら障害物を避けて水を求めて伸びるように、大気の中に均質ではない何かを感じながら、亀裂を探って伸びている。私は、現実の、具体的なものの形を作品に引用することはしない。だから、樹々の絵を描こうとは思わない。ただ、枝先が教えている「ことがら」には、釘付けにされてしまう。

萩原朔太郎は「月に吠える」の中の「竹」で、こう書いた。

(略)
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるえ。
(略)
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。

すごい言葉だと思う。私は、未だに一度も、こんな空間が作れたことがないし、こんな線も引けたことがないし、こんな絵の具が置けたこともない。