テレビのニュース映像で、ギフチョウの羽化の様子を流していた。いい加減歳を取っても、蝶や蝉、蜻蛉など、身近な昆虫の羽化の場面に偶然出くわすと、まるで子供のように思わず見入ってしまい、時間が経つのを忘れてしまう。今の住まいに越してきてから、夏の間中、近所のあちこちで蝉の抜け殻が落ちているのを見かけるようになったが、羽化の現場を目撃する機会は滅多にはない。それでも一、二度、家の外壁や植え込みの側の杭のところで、幼虫の背中を割って、白っぽい蝉がゆっくりと濡れた体を外に押し出すのを見ることが出来た。都市生活をしていると、すっかり忘れてしまっている、のろのろとした時間が経過する。何でもかんでも、すばやい展開や迅速な反応だけをつい求めてしまい、待つことには大抵苛立ちを感じるようになってしまっているのに、そういう私の愚かさなど頓着しないで、必要な時間をたっぷりとかけて羽化は進行する。

そういえば、あのニュース映像も、微速度カメラを使って撮影したのだろうが、ほんの数秒で羽化が終わってしまっていた。文明の進歩というのは、さまざまなものごとのスピードを加速するから、レスポンスがいいということは歓迎すべきことには違いないが、そういうリズムに慣れきってしまうと、ゆっくりとした時間の経過を、時には不快にさえ感じてしまう可能性がある。クラッシック音楽は、ほとんどの曲が、初演当時よりも確実にアップテンポになっていると聞いたことがあるが、これなども無関係な話ではあるまい。油絵の具は、水彩絵の具のように空気乾燥するのではなく、酸化して乾燥する絵の具なのだが、最近はさまざまな乾燥促進剤が売られていて、チューブに入った状態で、すでに超速乾性の物質が混ぜられているものさえある。絵の具ばかりではなく、コンクリートにも硬化促進剤があるし、植物の成長促進剤もあるし、人間の出産にも、医者の勤務時間に合わせて出産させるように、分娩促進剤が使われることがあるという。

効率の良さの追求を、何でもかんでも否定的にいうナチュラリストの言説はかなり胡散臭く、私自身も大いに文明の進歩の恩恵にあずかって暮らしているのだから、いまさら自然に帰れなどと戯言を言うつもりはない。ただ、乾きの悪い絵の具を使って絵を描くとか、時間をかけて行為を積み上げて何かを作るとかいう時には、闇雲に時間をショートカットしようとしないで、その時間の流れの中で思考を巡らせたり、視点を変えて見つめ直してみたりということを面白く感じる感覚は、もっと重視されていいのではないかと思う。予備校で講師たちからいろいろな話を聞いていると、とにかく現役で大学に合格させたい、できるだけ時間をかけないで次のステップに行かせたい、という保護者が年々増えてきているという気がする。経済効率や、精神的負担のことを考えれば、それはそれで致し方ないことなのかもしれないが、ことは、人の成長に関わることである。人の命の中に流れている、身体や精神が成長するために必要な時間は、無闇矢鱈に人為的に延ばしたり縮めたりするわけにはいかない。人間は絵の具やコンクリートではないのだから。

受験予備校を経営しているくせに、こんなことを言うのも妙といえば妙だが、実は私は、自分が美術大学の受験生だった頃の詳細な記憶があまりはっきりしていない。もちろん、幾つかの印象的な出来事の記憶はしっかりとあるのだが、それらが線的につながらず、前後関係もずいぶん曖昧だったりするのだ。子供の頃の記憶のほうはずっとはっきりとしていて、折に触れてふと思い出すことも多いのに、どうしてだろうと長い間不思議だった。三畳一間の不便なアパート暮らしをしていたが、そんなことよりも、自分がそれまで何となく身に付けてきた常識や価値観を揺さぶられる苦しさに、精神的に一杯一杯になっていた。部屋に帰ると、次の日外で人に会うまでは一言も口を開くことはないし、もちろんテレビもない。意識はどんどん自分自身の内側に向けられていくしかなく、体の奥底で何かとても大きな変化が起こっている実感だけが強くあった。蛹だったのだろうと思う。

蛹から羽化すると華麗な蝶になるというのは、蝶の世界でも限られた一部の種だけの話で、蛹から抜け出したといっても、もちろん私は美しく羽ばたきもしなかったし、華麗にもならなかった。大学を出て、作家として活動していく中でも、何度も失敗や挫折はしてきたが、苦しい思いはあってもそれらの苦しさは、10代後半のあの時期のものとは、まったく質の違う、はっきりと形があって痛みもあるものだった。すべての子供は誇大な自己を持っているという。成長の過程で、その誇大な自己が等身大な自己へと変化していくのだろうが、変化は徐々に穏やかにやってくるばかりとは限らない。それは決して楽しいことではないし、心地よいことでもないだろう。ただ、昆虫がいつまでも幼虫のままでいるわけにはいかないように、人もいつまでも子供のままでいられるわけはない。飽食と溺愛の巣の中では、肥満した幼虫も、食いっぱぐれたり鳥に襲われたりすることも少ないだろうが、いつか必ずその巣の外へ出なければならないのはわかりきっている。幼虫のまま外に出たら、ひとたまりもあるまい。

蛹は、ぬくぬくとして惰眠をむさぼることのできる、カプセルのように言われたりする。昆虫が、蛹の時にどんな思いをしているのかは知らないが、あれだけの変態を必要な時間をかけて果たすのだから、人が言うほど楽ではないかも知れない。大学の合格発表に悲喜こもごもの生徒たちを見ていて、なぜかそんなことを思った。