最近、仕事の都合で、集中的に毎日何人もの初対面の人と話す機会が続いた。立場上必要なことだから、そうする自分を卑下するつもりはさらさら無いが、ものごとの一番表層の部分を繰り返し説明するような、誠実なセールスマントークみたいな話をするのは、とても疲れることだ。本当に話さなければならないことを相手にきちんと伝えるためには、それに許される時間があまりにも短く、お互いの精神的な距離が遠すぎて、せめて正確に伝えようとすれば、水平に広げることも垂直に掘り下げることもできなくなる。触れられなかったことが、次々と体の奥に澱のように溜まっていって、数人と話しただけで、体中の血が重たい粘液になってしまったような気分になってしまう。
私が多重人格のせいなのか、それとも別な理由からなのかは知らないが、人によっては、私のことを喋り好きだと思ったり無口だと思ったりするらしい。昔、一人暮らしをしていた頃は、下手をすると何日も人と話さないということもあって、それを格別苦痛だと感じたことは無かったし、今でも、たまの休日に一人でいて、一日中誰とも言葉を交わさないことがあっても平気だから、私は、基本的には自分のことを喋り好きだと思ったことは無い。最近は、長年の不摂生のために歯が、特に前歯がぐらついたり抜けたりしたために、口舌が悪くなったこともあって、サ行・タ行・ナ行など、微妙に前歯の裏や上顎と舌先とを擦りつけたり弾いたりする音の出が宜しくない。時に聞き返されたりすることもあるので、以前よりも、喋ること自体に気を使うようになって、あまり気の進まぬ相手に喋るのは余計に億劫になったが、それでも、何か興味深い事柄について、興味深い人と会話することは、嫌いではない。むしろそういう機会がもっとあればと思う。
会話の基本は、そのまま醍醐味でもあって、それは相手の言葉に耳を傾けることだろう。ありきたりの単語が、その人の文脈の中では特異な意味を持っていたり、話されていることの裏側に別な意味の世界が見えたりする。それをしっかりと受け止めた上で、自分の言葉を探そうとすると、もはやその時点で言葉は単なる情報伝達の手段ではなくなり、私と言葉との共同作業の一方の担い手になっていく。まるで、画家と画布との関係のように、主従の関係は、何度も変換されてしまうことが起きる。そういう会話は、独力では行き付くことのできない場所に私を運んでいってくれる。言葉が本来持っている多義性が少しずつ浮かび上がってきて、いくつもの風景が重なり合った多重露光の写真のような、心地よい混沌が広がる。懸案事項について、何かの解決策を探そうとするような、会議や会談はしょっちゅうあっても、最近はまともに会話ができる機会は、ほとんどなくなってしまったような気がする。これはもちろん、私自身がどんどん貧しくなっていっていることの証に違いない。
私は、多分間違ってもカウンセラーや精神科医になることは出来なかっただろうと思う。患者との会話に、耐えられなくなるだろうからだ。患者の話に耳を傾けながら、自分をその場からほんの少しずらせて自分を守っておくという、強靭な精神力は私には無い。別な意味で、政治家にもなれなかっただろう。彼らほど、相手のいうことをまったく聞いていない人たちをほかに知らない。
すでに亡くなってしまったが、アメリカの作家にレイモンド・カーバーという人がいる。数編の詩集と、数十編の短編小説を残した人だが、翻訳されたものはすべて読んでいると思う。翻訳されたものしか読めないのなら、半分も解っていないよといわれるかもしれないが、美術作品ですら大半は複製か画集でしか見たことがないのだから、それは構わない。最近読んだのは「必要になったら電話をかけて」という、生前、何らかの理由で未発表のままに放置されていた作品を数編収録したものだ。すでに発表済みの作品についても、何度も重ねて推敲し、ぎりぎりまで言葉を選び続けたといわれるカーバーだが、この本に収録されたものにはその手が十分に入っていない。それでも、なんでもない日常の切れ端をすっと切り取ったように見えるカーバーの作品を読むと、いつも、言葉のやり取りだけに限らない、別な会話にまで触れたような気がしてしまう。まるで、手数は少ないが、じっくりと時間をかけて描かれたドローイングを見るようだ。

