春の盛りとはいえ、早朝の空気はまだ肌寒い。その中を散歩するのは、もっとも手っ取り早く快感に浸れるひとつの方法だ。前の晩に、調子に乗って少々呑み過ぎたりすると、当然二日酔い状態な訳だが、そういう時は頬に当たる冷気が一層心地よく、寒がりな私でも、寒さもまんざらでもないなと思ったりする。急激な寒暖の差は、脳溢血の引き金としては最も理想的なことらしいから、そのうち散歩中にぽっくりということもあるかもしれないが、それはそれで、あらまほしきことのような気がしないでもない。
自宅のすぐ近所に児童公園があって、その辺りは、周囲の住宅を見ると多分20年から30年位前に造成されたものらしく、公園も結構立派な欅(けやき)の木で囲まれている。緩やかな斜面にある公園は、上下2面に分かれて数段の石段で繋がっていて、上の面は、片隅にブランコがあるだけの一辺が50メートルほどの広場で、下の面はやや小さく、そこには鉄棒や滑り台、ジャングルジムなどが置いてある。早朝の公園には、めったに人がいることはなく、犬の大好きな、棒っ切れを投げて拾いにいくという単純なゲームにはもってこいだ。大抵は、自宅に近い入り口から入って、犬は、広場の方でひとしきり棒拾いで遊んでから、淵の部分の植え込みの根元でマーキングしながら、下の遊具のあるほうに移動していく。そこから外の道に出て、別のもう少し小振りの公園まではしごして、30分ほどかけて家に戻るというのが朝の散歩のお決まりのコースだ。
いつものように、犬に植え込みで用足しさせながら歩いていると、遊具のあるほうから不思議な声がする。なにやら苦しそうなうめき声のようでもある。犬のほうは、人間よりもずっと耳がいいからとっくに反応していて、その犬種独特の、やや前のめりになって両足とピンと突っ張って、思慮深い老人のような顔で、声のする方を見つめている。石段に向かっていって下を見ると、ジャングルジムの真ん中辺りで、かなりの速さで懸垂を繰り返している人がいる。茶系の地味なウインドブレーカーにグレーの普通のズボンで、遠目にも、頭のてっぺんがかなり薄くなった、決して若くはない男の人だということはわかる。犬は、微動もせずに真っ直ぐに凝視しているが、さすがに私は立ち止まって見つめるという無遠慮なことはできない。ベンチで睦み合っている恋人たちを目にしたときのように、気が付いてはいるが気にしてはいませんよという、最高級難度のメッセージが伝わるように、あらぬ方向に目をやりながら曖昧な歩調で石段を降りていくと、懸垂おじさんは激しい息遣いで懸垂をやめて、 ジャングルジムの中段で腰掛け、体をコの字にするようにして、上半身を上の段のパイプに乗せている。努めて歩くペースを変えないようにして横を通り過ぎ、逆側の石段に向かって歩いていくと、犬が突然私の後ろで立ち止まって、リードを強く引っ張る。振り返ると、懸垂おじさんは、今度はジャングルジムの端から上半身を外に出して、猛烈な勢いで腹筋運動を始めている。年寄りが、健康維持のために体を動かしているという穏やかな雰囲気は微塵もなく、まるでプロボクサーの特訓か、よほど腹に据えかねることがあって、体に八つ当たりしているみたいな勢いである。犬はよほど感動したのか、腰を下ろして見入っていた。
気を取り直して、犬のリードを強めに曳いて後を付いて来させ、元いた広場のほうに石段を上がると、今度は、なんと向こうから黒いコートにスカート、黒い帽子を被った小柄な女の人が、ゆっくりとこちらに向かって後ろ向きに歩いてくる。普通に歩いている人の体の動きと違って、背中がピンと真っ直ぐに立って足と手だけが機械仕掛けのような動きをしている。確かに姿勢はいいともいえるのだが、後ろ向きに歩く健康法なんてものがあるんだろうか。薄曇の誰もいない朝の広場を、黒尽くめの女の人が後ろ向きに歩いて少しずつ近づいてくるし、背中の方では早いピッチでムグッムグッと唸りながら、NHKの受信料の収集人みたいな格好の人が過激な腹筋を続けている。双方とかなり距離は離れているのに、私と連れの犬は、なぜか前にも後にも行けなくなってしまって、とうとうブランコの囲いの中に入って、バックウオーカーをそっとやり過ごす羽目になってしまった。その人は、前は見えていなくても、かなり正確に自分のいる場所が解るらしく、出口の5メートルぐらい手前で向きを変えて、黒い帽子と白いマスクの間からチラッと私を見て公園から出て行った。
犬はブランコの囲いのパイプにマーキングしている。もう、ろくに出るものもないのに、大型犬のマーキングに対抗するつもりか、むきになってほとんど逆立ち状態である。動と静の鮮やかなコントラストの、二種類の健康フェチを目撃してしまった茫然自失の私は、とりあえずブランコに座って、深々とタバコを吸うのである。

