母が入居しているグループホームを、自分の住まいの近くに変えたと兄から連絡があった。9年前、夫婦二人で住んでいた田舎の家を引き払って、埼玉の兄の家の近所に引っ越してきたその日に、父は二度目の脳梗塞の発作を起こし亡くなった。父が亡くなってから、兄は自分が母を看るといって、そのまま埼玉の自分の家の近所のアパートに住まわせていたが、母は以前から足が弱っていた上に徐々に物忘れが酷くなってきて、何度か買い物に出たきり道に迷ってしまい保護されることもあった。兄夫婦と同居せずに、父の位牌を守って一人で暮らしたいというのは、母の希望でもあったが、こういう状態になるとさすがに一人暮らしをさせるわけにはいかない。

とは言え、子供のいない兄夫婦は二人とも若い頃からそれぞれの仕事を持っていて、母を自宅に引き取って同居するのは難しいという。そこであちこち探し回って隣の街にグループホームを探してそこに入居させ、兄は毎日そこまで車で通っていた。元々人付き合いを嫌がる性質ではなかった母は、グループホームに入居してから表情も明るくなり、その環境に馴染んでいるように見えた。それでも、今年米寿を迎える歳になると、どんどん衰えていくのは致し方なく、面と向かっての会話にはほとんど問題はないが、手紙を出しても返事をくれることはもう無い。読書好きで筆まめなくせに、酷い悪筆で、時には前後の文脈から想像しなければ判読できないような手紙を、学生の頃はよく受け取ったものだが、今でも相変わらず本はよく読むものの、もう自分で文字を書くことはできなくなってしまったようだ。

週末に、ここまで書いて、事務所のパソコンにワードのデータを保存したままにして、週明けに続きを書こうとしていたら、その週明けの朝、母が亡くなったという知らせを兄から受けた。虫の知らせがあるなどという話はてんから信じてはいないが、私の記憶では一度も声を荒げたことの無い母を肴にして、したたかさについて書こうとしていた矢先のこの知らせに、私はちょっと唖然とした。その日の朝、息を引き取る一時間ほど前までは、普通に周囲のものと会話していたそうで、年寄りの誰もが願う通りの死に方だった。

その日のうちに、岡山に住む姉も含めて4人の子供が、母の遺体の安置されている場所に集まった。これといった病気を患っていたわけでもなかったので、特にやつれている風でもなく、母はとても穏やかな顔をしていて、私たちも、比較的冷静に母の死を受け入れることができていた。母は、生前社会的な活動をしていたわけでもなく、この地に住んで9年余りになるが、深いつながりのある親族もほとんどいないとあって、子供たちの仕事先などの関係者には、葬儀への参列や供花・供物などすべて辞退し、この際、親族だけで静かに送ってやろうということになった。

遺体の安置されている場所で、亡くなった日の昼過ぎからその二日後に荼毘に付すまで、私は何度も何度も棺の中の母の顔を見に行った。自分の母親の顔をこんなにしげしげと見つめたことは、今まで一度も無かった。涙は出なかった。亡くなったあくる日に、娘たちを連れて行き母の顔を見せたとき、死後硬直が取れたのだろうか、前日にはしっかりと閉じていた母の口がほんのわずかに開いて、前歯がチラッと覗いていた。形のそろった小振りの歯がきれいに並んでいたから、入れ歯だなと思ったりした。

母には男2人と女2人の4人の孫がいたが、姉の離婚後手元に引き取って、3歳ぐらいの頃から、20年以上自分が育てたそのうちのひとりは、30代で病死し、もうひとりの孫は20代で自死した。孫の中で残ったのは、私の2人の娘たちだけになってしまっていた。母にはそのことは最後まで知らされなかったが、たぶん母は2人の孫がいなくなったことに、薄々気づいていたのではないかと思う。自分が気づいていることを相手が知りたくないだろうと思えば、気づいていない振りのできる人だった。

火葬場で、火葬が済んで遺骨を拾うとき、真っ白な骨の中に真っ黒になった馬蹄形の金属があった。入れ歯だった。それを目にした時、突然涙があふれてきた。