目が近いという言い方がある。近眼を指すわけではない。対象の狭い範囲にしか関心を持たず、意識的に対象との距離を遠くとったり、他のことがらと比較したりしようとしない、ものの見方のことである。初心者がデッサンする姿などを見ていると、大抵は実際に画面にかぶりつきのスタンスを取っている場合が多いので、まずそちらの方向から注意したりするのだが、本当はイマジネーションの問題だ。例えば版画家の棟方志功は、強度の近視で物理的にはほとんど画面に顔をくっ付けるようにして描いていても、画面全体の状況を見失わずにいたし、晩年のドガはほとんど失明に近い状態で作品を作っていたという。出来る人には出来るのだ。逆に、全体を見通そうとしてわざわざ画面から離れても、相変わらず同じところにしか目が行かないとか、関心を向ける対象が変わらないという人もいる。
気に入ったピアスをはじめて付けて鏡をのぞいたとき、鏡の中のピアスしか見ないという人はいないだろうし、壁に絵を掛けるとすれば、壁全体どころか部屋全体との釣り合いを気にして場所を決めるはずだ。ところが、場面が変わると、人はなかなかその当たり前のことができなくなってしまう。フィジカルなトレーニングが大きなウエイトを持つスポーツなどの場合は、肉体的な事柄についてはほとんど無意識に反応できるぐらい習熟しなければ、周囲に目配りすることなどまず不可能である。自転車にはじめて乗った子供や、自動車のハンドルを教習所で始めて握った人も、同じように周りの状況はほとんど目に入らないものだ。ところが、フィジカルな縛りが掛かっていない時でも、人は何かの強いストレスにさらされると視野が狭くなってしまう。外から入ってくる情報をプールして、イメージに結びつけるということができなくなり、情報が身体の中を素通りしてしまう。人が、日常生活の中に限らず、さまざまな条件下で視覚に依存している割合はとても大きいと思うのだが、案外それを的確に機能させるのは難しい。
この季節は、初めて何時間もかけてデッサンをするという若者に多く出会う。慣れない場所で、若干緊張気味にイーゼルに向かっている彼等・彼女等を見ていると、遠い昔の自分を見ているような気がして面映い気分にもなる。普段、高校や家庭では傍若無人とは言わないまでも、かなり気侭に振舞っているはずの子供たちが、何時間も神妙に画面に向かって黙って手を動かしていて、時折講師が短いアドバイスをすると、まるで財布を落としたことに気づかなかった子がそれを指摘されたり、こっそりと隠しておいたはずのしくじりが見つかったりしたときのような、驚いたような、はにかんだような表情でそれに答えている。紙に鉛筆でデッサンすることだけが、美術の基礎であるわけはないが、見えないことを見えるものに置き換えるという困難には、どこかで向き合わなくてはならないのは確かで、この経験は、そのことの無限にある手段のひとつに過ぎないと、いつか解ってくれるだろうか。
日常の生活のさまざまな場面で、特にサブカルチャーの分野では、自分達こそが時代の最先端を行っているとさえ感じているだろう。だから彼等は、何かにつけて新しいとか古いとかいう言葉を口にするのは得意だ。2年前のサウンドなんか古くってと言う。もっとも、幼児性の抜け切らない大人は確実に増えているから、困ったことに最近は、いい歳をした大人まで得意げにそういうことを言ったりするが。ところで、彼らの描く絵を見ると、技術的にある程度達者になってくればくるほど、大半が実は100年前に描かれた絵画でさえ、理解や鑑賞に支障を感じるほど新しい表現だと感じていることに気づく。逆に言えば、何百年も前に、小さな窓から入り込む弱い光や暗闇に揺れる蝋燭の光で見るように造られたものを、いまだにとてもリアルだと感じているということだ。もちろん、20世紀中盤以降に作られた作品は、さっぱり解らないという。これはとても興味深い現象だ。この子たちの大半が平成生まれだから、斯く言う昭和も20年代生まれの私などとは、当然親子以上の開きがあり、別の場所で会えば彼等・彼女らから見れば、私はただのちょい呆けオヤジに過ぎないわけで、彼らのそういう感覚に驚く私は、彼らの目にはどう映るのだろう。
20世紀の先進工業国は、人間の五感の中で視覚への依存が、特に著しかった時代だったと思う。視覚的情報伝達手段の急速な発達があり、それが世紀後半に急速に個人生活の中に浸透した。百聞は一見に如かずどころか、一見こそが真実とでも言わんばかりの視覚情報への盲信が蔓延して、メディアの垂れ流す情報を見逃すまいと必死になっている。視覚情報への飢餓感は、デジカメや携帯カメラの画素数競争やプラズマだの液晶だのという受像機のコマーシャルを見ていると、ほとんどヒステリー状態と言ってもいいだろう。見えるものの量が増えても、見る側の意識や感受性が変わらなければ意味は無い。豚に真珠、馬の耳に念仏と言うが、人の目にはなんと言うのだろう。五感の中で視覚が優先される動物は、大抵目が大きい。目の大きさが異性の魅力のひとつと言われるのは、人間がどんどん目の生き物になってきているからに違いない。最近は、目力(めぢから)なる言葉があって、黒目を大きく見せるコンタクトレンズまであるらしいが、眼力(がんりき)を付ける目薬は売り出さないのだろうか。そんなもん、売れないか。

