この9月で、父が死んで9年目になった。その年の夏もとてもひどい暑さで、炎天下に喪服を着て立っていたときの焦げるような暑さが、何かずっと遠い昔にあったことのように思える。今では、そうそう頻繁に父のことを思い出すということも無くなったが、早くにたった一人の姉を亡くして、あの時代には珍しく一人っ子として祖父や祖母と同居して、父は、旧電電公社の職員として生涯勤め上げた。堅物なのか型破りなのか、いまだに良くわからない人だったが、その父の話を、夏の始めの母の納骨の時に思いがけなく寺の住職から聞かされて、久し振りに生前の姿をありありと思い描くことが出来た。
明治の最後の年に生まれた父は、若い頃はバイオリニストになりたかったらしい。これは父の口から直接聞いた話だから、まんざら嘘でもなかっただろうが、それがどの程度強い意志だったかはわからない。生家には、古い手回し蓄音機という奴が残っていて、確かに、ひとつひとつがずっしりと重い78回転のSPレコードが大量にあった。いわゆるクラッシックの名曲の類もかなりの数あったから、音楽への関心はあったのだろうと思うが、晩年の父の言動からは、それもかなり怪しいものだと言わざるを得ないような気がする。ともかく、その話は、バイオリンなんぞやって無声映画の弁士の横で一生を終わるつもりか!!という、多芸多才だった祖父に一喝されて反故になったらしい。そこから電電公社という飛躍が、なんとも笑える。最も古い記憶のひとつに、すでに40代後半になっていて田舎の電話局の課長職についていた父が、宴会か何かで遅くにベロベロに酔っ払って帰宅して、玄関で何やら訳のわからないことを母に向かって喋っていたかと思うと、しばらくしてから居間で炬燵にあたっていた祖父の前に正座して、ただいま帰りましたと挨拶していた姿がある。子供心に、何だかとんでもないところを見てしまったような気がしたものだ。
四人兄姉の末っ子だった私が高校を卒業して上京すると、父は定年直前に退職した。県内の小さな街の電話局長として、それまで数年間家族と離れて暮らしていたので、祖父や祖母の晩年は一緒に暮らしてやろうと思った、というのが表向きの理由だったが、本当のところは良くわからない。ともかく、まだ老け込む年ではないから、その辺りから、父は誰はばかることなく家の大改装を始めた。自分では日曜大工といっていたが、毎日が日曜な訳だからフルタイムの大工である。電話局時代は、工事課長でいた時期が長かったから、ひと通り電気のことや大工仕事の類のことには知識もあり、元々器用な性質だったことも手伝って、ほんの数年間で生家の8畳ほどの一室は、完全に作業部屋兼道具置き場になってしまった。退職金で小さな家でも郊外に建てるか、などという話は当然立ち消えになって、プロの大工があきれるほどの道具・工具を揃えて、客間の床の間の天井に穴を開けて天窓にしたかと思うと、台所の改装、二階の増・改築、建具まで自分で作り、大技に飽きると小技にも手を出した。庭木に赤い実がつく頃に鳥が食べてしまうからと、枝に精巧なフクロウのデコイを取り付け、 そのデコイの中には大型のベルを仕掛け、目には赤い豆電球が点滅する仕掛けを施して、鳥が実をついばむのを見つけるとリモコンで作動させて喜んでいた。
祖父母を葬ると、次は自分の番だが、葬式で坊さんに何だか訳の解らないお経を上げられても、来てくれた人も退屈なだけであれはいけないと、自分で、本日は私ごとき者の為に御参列いただき・・・と会葬者への挨拶を、雨の日用と晴れの日用の2タイプ吹き込んでいた。もっとも、残念ながら本番の時にはそれは所在不明で、実際に使われることは無かった。玄関を開けると、どこかのリサイクルショップで見つけてきたセンサーが人を感知して、いらっしゃいませ!!という声がスピーカーから流れるし、菓子箱ほどの木箱に幾つものスウィッチが入っていて、手元で家中の明かりを操作できるようにし、FM電波を使ってあちこちに合計10個以上仕込んだスピーカーも操作していた。要するに、晩年に近づけば近づくほど、父は使用価値というものからとことん遠のいていったのである。
母の納骨の後の会席の場で、寺の住職は、お父さんも、またお母さんと一緒になられて喜んでらっしゃるでしょうと、挨拶代わりに差し障りの無いことを言った後、しかしお父さんは、面白いというかユニークな人でしたな、と話を続けた。おばあさんが亡くなって三回忌の頃でしたかな、お盆に朝から何度も何度も暑い中をお父さんが本堂の前のお墓にいらっしゃるものだから、どうされましたかと声を掛けたら、ニコニコしながらいいもの見せてやるから楽しみにしてなさいと言われる。夜になってふと表に出てみると、お墓の形に綺麗に豆電球がついたり消えたりしていまして、それも卒塔婆のひとつひとつまできちんと仕事されておりまして、あれには本当に驚きました・・・。さすがは芸術家さんのお父さんですなというのは余計だったが、初耳であった。最晩年に、父は自らの不注意もあって家を全焼してしまった。火災保険は隣近所への詫びに使い、小さな借家に数年住んで、死んだ後には母が何とか暮らしていける年金と、四人の子供以外には何も残さなかった。

