M.N.Pというのは、日本人にはちょっと発音しにくい名称なのに、ほかに適当なネーミングはなかったのだろうか。携帯電話のキャリアを変更しても、以前の番号がそのまま使えるというシステムが、10月24日からはじまるという。携帯電話のキャリアや機種など、まったくといっていいほど興味は無いが、この機会にvodafoneからdocomoに乗り換えることにした。具体的にどういう手続きが必要なのか、もうひとつ要領を得なかったので、何度か両方の会社に問い合わせた。伊豆の山奥のアトリエでは携帯電話はdocomoのMOVAしか使えない。同じdocomoでもFOMAでは駄目だそうだ。その他あれこれ・・・ようやく大筋は理解できたが、なんとも面倒な話である。もしdocomoに換えることができれば、普段ほとんど遣うことの無い固定電話の回線を切ることができる。使わない固定電話に毎月基本料を払っていることを考えれば、かなりの節約になるというわけだ。 本当は、携帯電話も今のまま使えなくして、固定電話も解約して、アトリエに行ったら一切連絡が取れないということにするのが一番いいのだが、そんなことができるほど気侭な身分ではないと自分で思い込んでいるのが、なんとも悔しいところである。携帯電話など、邪魔なだけだから捨ててしまおうかという気になりかけた途端に、docomoならアトリエでも使えるぞという悪魔のささやきが聞こえてしまった。

携帯電話が普及する前のポケベル時代は、あれを持たされる人は、四六時中発信元に鵜飼の鵜のように、首に紐を付けられているのと変わらないではないかと思っていて、携帯電話がポピュラーなものになってからも、しばらくはそれを持つことにかなり強い抵抗があった。今でももちろん、営業職についているわけではないのだから、それは必要不可欠というものではない。第一、毎月の使用料を見るまでもなく、めったにこちらから発信することは無いし、受信にしても私が携帯電話を持っていなければ、相手は事務所の固定電話にかけてくるまでのことだ。もう10年ほど前のことだが、ある日、自分が無意識に頻繁に腕時計の文字盤に目をやっていることに、気づいて無性に腹立たしいような恥ずかしいような気分になったことがある。特に何かの予定があって時間がおしていたというわけでもないのに、多分何となく退屈していたのだろう。腕時計が悪いわけではないのだが、その時は、電池切れで動かないものも含めて、全部で5‐6個は持っていた腕時計をすべて捨ててしまった。それ以来私は腕時計をしていないが、それでも不便を感じることはほとんど無い。その気になれば、時間を知ることなど案外容易くできるものだし、それが難しいところにいるときには、時間などどうでもいいものなのだ。

電電公社がNTTになって、NTT以外にも幾つもの会社が電話の事業に参画し、通信システムが多様になるにつれて、通話料の安さを謳うセールスがここ数年ものすごいことになっている。それも仕事中に電話をかけてきて、こちらが言葉を挟む隙も与えないように、一方的にセールストークを始めるというやり方が目立つ。相槌を打つたびに切れ目なく次々と別な話をかぶせてくる。こういう、電話での一方的なセールストークのテクニックは最近やたらに進化していて、ちょっと気の弱い、いやいや普通の電話のマナーを心得ている人には、なかなか会話を打ち切ることが出来ないような畳み掛け方である。目当ての本人に電話を引き継がせるために、自分の会社名や電話の目的を告げず個人名を名乗るなど普通で、中には代理店であることを伏せて冠の企業名だけを名乗ることさえあり、しばらく話を聞いていてやっと代理店だとわかる始末。最近、仕事の関係で会う機会があった、一代で財を成したという実業家のオバサンもそうだが、何だかこの頃、ことの良し悪し以前に、下品だなぁと感じることがとても多い。およそ上品さとは無縁の私にしてそう感じてしまうのは、なぜだろう。

日本人は、宗教的価値観を共通項として持っていないために、価値の基準を持ち難いと言われる。たった50数年しか生きていない私の体験だけからでも、確かにそうかもしれないなと思うことは幾つもある。大抵の日本人が、現実の状況の変化に対してはからっきし脆い。あれほど二度と戦争はしてはいけない、どんな理由があっても戦を正当化できるものなど無いと言っていたくせに、普通の国へとか言い始めて、使うつもりは無いよと言いながら、鞄の中にナイフぐらい入れてもいいじゃないかという話になってきている。芯が揺れる。いらないものはいらないとか、下品なことは嫌だとかいう、そんな単純な理由でいいからもう少し自分を律してもいいのにと思う。私よりも年下の首相が初めてこの前誕生したが、この政治家も盛んに美しいとか品格とかいう言葉を使っている。美しさや品格に、政治家ほど縁遠いものは無い。