私が職場に持っていく弁当箱は小さい。女子高生みたいですなとからかわれるが、別に肉体労働しているわけでは無いのでそれでいいのだ。これでも若い頃は大食漢だった。だから、当然太っていた。最高に太っていたころでも80キロに届いたことは無かったが、ウエストサイズは85‐86センチくらいはあっただろうか。そんな身体でバイクに乗って、きつめのジーパンを穿いたりしていたから、当時教えていた生徒たちは、パンパンに強く張ったキャンバスのことを、密かに「エツキャン」と呼んでいたらしい。最近はいかにも脂ぎった絵描きやモノ書きも珍しくは無いが、古典的な芸術家像というのは、痩せて、面長で、色白で、長髪という奴だったから、残念ながらそんな私を遠くから眺めて頬を染めるという女性はいなかっただろう。
受験浪人のころにはほとんど記憶に無いが、学生時代にはポツポツとあちこちにバイキング形式の焼肉屋が開店していた。貧乏学生にはそれは結構な贅沢で、おなか一杯に肉が食べられるということだけで、何だか幸せになった。20代の半ばに最初に胃潰瘍になってゲキ痩せし、一度復活して今度は30代半ばに吐血して入院、手術をしたわけではないが、それ以来大食が一転して小食になった。今ではもちろん、焼肉バイキングなどに顔を出すことなどまったく無いし、バイキングといえば、たまにホテルに泊まったときの朝食ぐらいでしかお目にかかることは無い。
元々バイキング方式の食事というのは、あの帝国ホテルが始めたもので、ネーミングも同じらしい。当時の支配人が北欧を旅行していた時に、伝統的な北欧料理のスタイルであるスモーガスボードというものを体験し、そのスタイルをインペリアルバイキングと名付けてホテルで開店したものだとか。たくさん用意されたものの中から、自由に選択して組み合わせるというスタイルは、用意されたものの質が一定以上のレベルであることと、選択する側にちゃんとしたバランス感覚があってこそ、初めて魅力的ものになるのだろう。どちらが欠けても、ただの手抜きか偏食を助長することにしかならない。それなら、提供する側がせめてバランスをとって、定食というかコース料理というか、そういうスタイルにするほうがまだましだろう。
同じ職場の、まだ大学に通っている20代の若者が、サルトルやカミュという名前さえ知らなかったという話を割合最近耳にして、ちょっと驚いた。愕然としたと書かないのは、さもありなむという状況はかなり前から感じているからである。サルトルもカミュも読んでなくたって構わないし、今の時代、実存主義哲学に触れる必然性はそれほど無いだろうとは思うのだが、その名を聞いたことがないというのはまた別な話である。そんなはずは絶対に無いと断言してもいいと思う。多分聞いたことは何度もあるけれど、興味が無いから記憶に引っかからないまま素通りしてしまったということなのだ。いったい、どんな風に情報から隔絶すれば、20年も30年も生きてきてそんなことすら知らずにいられたのか、不思議で仕方が無いということに、 最近頻繁に出くわす。連合赤軍も、キング牧師も、トンキン湾も、ポルポトも初めて聞いたという若者がたんまりといるから、嘘だと思ったら聞いてみるといい。
今の若者たちは、かなり知的レベルは高いと思われるものまで、知的偏食にどっぷりと浸かってしまっているような気がしてならない。欲しくなかったらたくさん食べなくてもいいから、美味しそうなものだけちょっと食べてみなさい、美味しくなかったら他にもいっぱい食べ物あるからねと、最初からバイキングで育ったのだ。あなたに合った食べ物がきっとテーブルのどこかにあるからそれを探そうね、と励まされながら、とりあえず腹を一杯にしたいという欲望に突き動かされているわけでもなく、周りに言われるままつまらなそうにあちこち摘み食いしているのでは、肩が震えるほど旨いものに出遭うわけが無い。出遭ったとしても、そう感じるはずが無い。
そんなの食べたこと無いよ、といいながら、いつも同じようなものばかり摘み食いしている腹の減らない子供たちをこんなに大量に育てて、まだ飽き足らずに、きっとあなたの好きなものがあるはずだよ、探していれば夢はいつかかなうよと無責任なことを平気で言う、自分も偏食の親たちは、一体いつになったらこのことの怖さに気づくのだろうか。本来良質なバイキングレストランであるはずの美術学校で、時々定食を食べさせなくてはならなくなるほど、線の細い偏食の若者たちがどんどん増えてきている。

