今年も幾つか記憶に残る展覧会があった。私のような、いわゆる現代美術と呼ばれる作品を作っている作家は、伝統的な作品には興味を持っていないのではないかと誤解されることがあるが、そんなことは無い。たいした必然性も無いのに、伝統的な形式にしがみついて作っているだけの作家に興味が無いのであって(もちろん、新しがっているだけのつまらない現代美術も辟易だが)、古かろうと新しかろうといいものはいい。良し悪しの基準のひとつは、それが止むに止まれぬ理由があって作られているかどうかだろう。その理由が、私的なものであろうとなんであろうと、それは構わない。今年は、幾つかの会場で伊藤若冲の作品展が行われたが、大掛かりな修復作業を終えて、宮内庁の三の丸尚蔵館に展示された「動植綵絵」(どうしょくさいえ)は、40年足らず前に初めて画集で見て以来、初めて実物を目にすることのできた稀有な体験だったこともあって、強く印象に残っている。

作品は、さまざまな動植物を精緻な筆遣いで描きあげた全30幅の掛け軸で、画題とされているもの中には、いわゆる日本画の典型的なモチーフとはいささか趣を異にしているものもある。日本の絵画の歴史の中で、室町中期から江戸末期まで約400年の間、常に時の権力と結びついて圧倒的な存在感を誇った狩野派のスタイルとも、大きく違う。宗教画はもちろんだが、古今東西を問わず作品のモチーフやスタイルには、鑑賞者の側に暗黙の了解のようなものがあって、その了解事項を無視したり破壊したりするものを表現することは、作者にとっては大きなリスクを背負うことでもある。よく知られた話では、19世紀末のフランスで印象派と呼ばれた画家たちが、当時の絵画に求められていた価値観を満足させないどころか、それを逆撫でするようなテーマや形式の作品を、社会全体に充満してきた革新的な機運を反映して制作し発表したことで、体制側の批評家や権威といわれる人たちから猛烈な非難と攻撃を受けたということがある。もっともこういうことは、なにも美術作品だけに限られた話ではなく、どこの世界にもよくある日常茶飯事のようなものだろう。

18世紀の日本で、なぜこの「動植綵絵」のような作品が作られたのだろうかと、ふと考えてみた。この時期は、享保の改革で知られる8代将軍徳川吉宗の治世だが、江戸開闢以来100年余りが経過していて安定した世情になっていた。各地の交易が盛んに行われ、交通の要所は幕府が厳しく管理したものの、宿場町や人足、橋、渡し舟などが整備され、ものと人の往来が飛躍的に増加したはずだ。そのことで、いわゆる情報のネットワークが発達して、より広範な対象について知の欲求が増大していったのに違いない。日本初の百科事典といっても過言ではない「和漢三才図会」も、確か、この時代に寺島良安という医者によって編纂されている。寺島良安もそうだが、漢方医は薬としてさまざまな植物や動物を材料に使う。本草学という、自然を客観的に観察して分類し、現実を理解しようとする学問が発達して、その当然の帰結として森羅万象を知ろうとする機運がますます高まったに違いない。

ちなみに、吉宗という人は非常に好奇心の強い人だったらしく、江戸中期とは思えないほどさまざまなものを海外から輸入している。胡椒の樹、椰子の樹、外来種の馬や犬、孔雀に駝鳥、七面鳥、インコ、九官鳥とちょっとした動物園並みで、何と象まで手に入れて、浜離宮で飼っていたという。そう言えば、カリフォルニアのプライスコレクションには、若冲の描いた「鳥獣花木図屏風」という、象や虎や豹や駱駝を描いた、画面全体を小さな矩形で埋め尽くした不思議な絵があるが、日本に象が来た時、京都に住んでいた少年若冲は、果たして長崎から江戸まで移動中の象を実際に見たのだろうか。当事奈良に、長崎での貿易で船員が持ち込むさまざまな剥製や標本や図鑑を集めていたコレクターの商人がいて、若冲がたびたびそこを訪れていたという記録は残っているらしいが。ちなみに、「養生訓」や「大和本草」で知られている儒学者で本草学者の貝原益軒、「古事記伝」、「玉勝間」の国学者、本居宣長も同時代の人だから、想像以上にこの時期の日本には、新たな視点を獲得することで既存の価値観から抜け出ようとする意識変化のうねりが起こっていたのかもしれない。

既存の価値観にしがみつくことに拘泥している人はいざ知らず、そうでなければ人は時代と無関係に生きることはできない。一方で、時代の雰囲気に敏感に反応することや、時代の要請に応じていくだけのことなら容易いことである。特にメディアからさまざまな情報が垂れ流されている現代では、時の話題に飛びつくことなど簡単なことだ。若冲の絵は、さまざまなものをつぶさに観察して、それを息を呑むほどの細密な描写によって表現するのがひとつの特徴ではあるが、決して写生とは言えない。画面の中に広がる色彩と形態は、現実にはありえない完璧な自律を果たしている。鋭い眼差しを世界に向けて放ち、そこで捉えたものに驚くべきほどの堅牢な秩序を与えなおしている。今の時代が私に見せているものから、私は何を見つけることができるのだろう。いつか、確信を持ってそれを差し出すことが私にできるだろうか。たとえ独りよがりだとしても。