年の瀬の30日の夜、伊豆のアトリエに向かった。普段はどうだか知らないが、その日は、湘南海岸沿いのバイパスの下り車線ではほとんど渋滞も無く、熱海を過ぎた辺りからは前を走る車も1、2台という状態だった。こういうときに限って、ちょっとしたスピード違反で停められたりするものだということぐらい判っているので、ひたすらのんびりと流れに乗って車を走らせる。ちなみに、私は元カミナリ族(?)のゴールドカード保持者である。熱川を過ぎてしばらくして国道から右に外れ、山道を駆け上がる。ここは、標高差700メートルをたった8キロほどで登りきってしまうため、急坂と急カーブの連続でしかも道も狭く、ちょっとした山岳ラリーの気分が味わえる。ブラインドカーブが多いので昼間はかなり注意しなくてはならない道だが、夜は稀に対向車がいたとしても、ヘッドライトのお陰で事前に相手を察知できるためむしろ危険は少ない。途中、鹿や猪、狸などとバッタリ出くわすことも珍しくはないけれど、向こうが逃げる暇もないほどのスピードはさすがに出せないから、いつものように一気に駆け上がる。丁度半分くらい登ったところに、つまみ菜かカイワレ大根かを作っていたという廃工場があり、その前にごみの集積所がある。そこを過ぎるとしばらくの間は、別荘らしき建物も姿を見せなくなる。林の中の、道幅がちょっと広くなった辺りで車を停めて、エンジンをストップさせ外に出ると、かすかにタイヤのゴムの焼ける匂いが漂って、ボンネットの中からはエンジンのカチカチカチという音が聞こえてくる。ヘッドライトを消すと、人気の無い山の中の道は漆黒の闇に包まれる。
とても暗いとか、時には真っ暗と表現してもいいような暗さは、都市生活をしていてもわりと身近にあるのだが、その暗さの質は、漆黒と表現するにはいくらか混じり気がありすぎる。人工的な光があちこちで漏れている都市に限らず、人里離れた山の上でもそこまで見事な闇に包まれることはあまり無い。暗さに目が慣れてくると、月明かりというのはとても明るいもので、家や木立の影をかなりはっきりと道に落とすほどだ。月の出ていない夜でも、星の光だけでものの輪郭はしっかりと見える。厚い雲が空を覆っている夜に、家中の灯りを消して外に出て、しばらく自動点灯した玄関先のスポットライトの灯りを頼りに歩いていくと、タイマーが作動してライトが消える。一瞬、完全な闇に包まれた気がするが、目蓋を明けていても閉じていても、眼球の中では今まで捉えていた光のやや緑っぽい痕跡が幾つもあふれていて、それはむしろ鮮やかだといってもいいくらいだ。しばらくその場所に座り込んで落ち着くのを待っていると、目蓋の裏の光の乱舞が少しずつ収まり、今度は視覚よりもずっと聴覚が敏感になってくる。夜更けの山は、たいそう賑やかだ。(多分)鳥のだろうが、何種類もの短く甲高い鳴き声があちこちから聞こえ、風が葉を擦り合わせる音、明らかに風の仕業とは思えない小枝を震わせる音、パチンと何かが弾ける音。叫ぶような動物の鳴き声。それから30分ぐらいの間は、全身を耳にして、ひとつひとつの音に小さな子供のように大袈裟にびくついているしかないのだが、それが過ぎると、初めて自分の呼吸音や心音と周囲の音のバランスが取れてくる。 相変わらず賑やかな音は聞こえていても、すぐ近くからでなければ聞き流せるようになる。気候のいいときで、安全な場所であれば、そのまま眠ることもできるだろう。どこかに懐かしさのようなものを感じながら。
伊豆とは言え、真冬の山の上はかなり寒い。標高で考えれば、下の村より気温は3℃は低いだろう。物好きにも冷えた夜に闇を楽しむ気になど到底なれず、昼間気温の上がったところで下の谷を挟む小道をぐるっと一周する散歩に出かける。アトリエは、だらだらとした坂道の途中にあって、どちらの方向に進んでも途中で坂道を上らないと帰り着けないが、どうせなら歩き始めに上ってやろうと右手の方に歩き出すと、すぐ側の緩やかなカーブの30mほど先に、立派な角のある二匹の鹿が立っていた。やっと車二台がすれ違える程度の道幅と回りの樹木のスケールと比べると、伸びた角の先は、私の背丈よりも高いところにあるように見える。一瞬、私も鹿も動きを止めた後、連れの子犬がちょっと動いたのを合図に、鹿は一声キョーッというような声で鳴いて、すぐ横の茂みに飛び込んで急な斜面を駆け上がっていった。何となく敏捷な動物というイメージとは違って、案外動きは重い。大きな体をヨイショッと持ち上げて、それでも走るのではなく飛び上がるように藪を駆け上っていく。姿が見えなくなっても、そのまま上の藪の中を逃げていく音は聞こえるが、ドサッドサッというような重たそうな音である。いつもは、日没後に人気の無い場所で車の中から見るだけだった鹿が、昼間に、しかも人家の側の道に出てくるとは、よほど山の奥に食べ物が少ないか、それとも生息数が増えているのだろう。入り口横のベランダの近くに、以前飼っていた犬の墓が作ってあって、そこに供えた好物だったみかんなどの果物は、朝になるときれいに無くなっていたから、食糧難なのかもしれない。結局、アトリエにいた3日間で、近くの路上で今年は3度も鹿と遭遇してしまった。
元々人込みの中に出るのは好きではないし、まして年末年始にわざわざ山を下りて買い物に出るなど真っ平で、結局今回は一度も下の村には下りなかった。相変わらず薪ストーヴで暖を取りながら時折本を手にとり、夕方から焼酎を飲み始める。時間をかけて飲む分、気がつくとそれなりの量を飲んでいて、あくる日の心配が要らないのをいいことに寝るまで飲みつづけ、結局は二日酔いとなるのだがこれもまた良し。いい気になってこんなことを2日ほど続けていたら、案の定薪が切れてきた。どこか微かに前夜のアルコールが残っているのを感じながらチェーンソーを車に積み、倒木を探して林の間に刻まれた荒れた道をうろうろと走り回り、道路からちょっと入り込んだ林の中で倒木を刻む。鋸で挽くのに比べたらほんのお遊び程度の運動量なのにも関わらず、直径10−15センチの木の幹を刻んで運び出して車に積むという作業を数10分も続けていると、汗が噴出してくる。人付き合いとも仕事ともまるで無関係なこういう生活もいい。数冊の本と安い焼酎が何本かと一週間程度のまとまった休みが手に入ったら・・・。

