ひとりで水族館や博物館などの展示施設の中をうろつくというのは、なかなか楽しいものだ。子供がとっくに成人している今では、家族とそういうところに行くということもないが、家族だろうとそうでなかろうと、他の人と一緒だと、どうしても自分ひとりのペースで行動するわけにはいかない。相手がどれくらいのペースで見ているか、どこかで気にしながら歩かなくてはならないし、時には軽い会話も小声で交わすこともある。そうすること自体が胸ときめく相手となら話は別だが、もう百年以上そういうことともご無沙汰である。美術館となると、こちらも仕事柄、どこか展示作品に対して背筋を伸ばしてしまうところもあり、野放図に楽しむだけというわけにはいかない気分になってしまう。博物館ではもとより無知蒙昧の身、展示物にいちいち感心しながら、それらの説明文をひとつひとつじっくりと読み、想像力を限界まで使って楽しむことができる。展示巡りに疲れたら、館内の適当なところで、早くも多少惚けの始まった気の毒な人になりきって、座り込むのもいい。

もっとも好ましいのは水族館である。陸の上の遺物や生き物は、ただの思い込みに過ぎないとしてもどことなく既知感がある気がするが、水族館の水槽の中は、完璧なワンダーランドである。どうしてそうなったのかまったく納得のいかない色と形が乱舞している。ものを見ることによって、そう見える理由を探して理解するという訓練は、美術家としての能力を育てていく時の、最も基本的な訓練のひとつだ。その能力が、外形からある程度形と構造の関係にまで及ぶようになると、アナログなものであれば、かなりの範囲のものが外見から仕組みが想像できるようになる。料理を作ることや簡単な機械修理などが得意な美術家が少なくないのは、単に彼らが器用なばかりではない。どうして? という思考や感覚は、作品を制作していく動機としては不可欠なものだろう。ところが、悲しいかな水族館の生き物に対しては、わずかばかりの私のその能力は無効になり、ただただ呆然とする他ないことになる。文字通り地に足がついていない生き物に目を向けて、大型水槽の光の屈折が理由の眩暈感だけではない、独特の眩暈に身を委ねるのは至福である。

何年か前、友人が栃木の美術館で個展を開いた折、車で出かけて早めに目的地近くに着いてしまったので、時間つぶしに美術館近くにあった博物館に立ち寄ったことがある。丁度、恐竜の骨格展示を企画で行なっていて、ああいう地方都市の公共施設にしては、人の入りがかなり多かった記憶があるが、それでも展示の前に行列ができるほどではもちろんなく、程よく活気があるという感じだった。企画展示室から一度出て、再入場するような形になる常設展示室は、たいていの博物館がそうであるように、ここでも期待通り閑散とした雰囲気が漂っていた。基本的に人ごみを嫌う性質なので、そういうぽっかり口をあけたような場所に入り込むと落ち着くのである。地元の歴史に関係の深い展示物が並んでいるコーナーでは、顔のつやつやしたあまり出来の良くないマネキン人形が、古びた衣装を身に着けていて、お陰で衣装のほうが偽物みたいに見えてしまっていた。衣装などは、下手糞なマネキン人形などに着せるくらいなら、そのまま広げて壁に貼っておくか、せいぜい顔や手先の丸められた無機的なボディーに着せておくほうがいいのに、と思いながら、ショウケースの中をふと覗くと、異彩を放つ展示物がひとつ転がっていた。

明治の初め頃、足尾の銅山で使われていた削岩機である。ドイツかイギリスからの輸入品らしいが、当時の最先端の掘削機械だろう。その周囲にある展示物が、どれもこれも、今の基準で言えば粗末な材料で、素朴な形をしているものばかりであったということもあるが、カーキ色のその削岩機は、機能をそのまま反映した形といい質感といい、見た目は少しも古びたものには見えなかった。考えてみればこの時代には、後になってロシアのバルチック艦隊と一戦を交えることになる世界水準の軍艦も揃え始めていただろうし、新橋?横浜間には、蒸気機関車も既に走っていた。一般の家庭の中には、まだろくに電気もつながっていなかったはずなのに、国策として力瘤を入れたことと、民生との間の差がとてつもなく広かったということなのだろう。幾つかの国の、庶民の生活と核武装。今思い出すと、なぜかいろいろなことが妙に腑に落ちる思いがする。