日曜日の昼下がり、久し振りに電車に乗った。気温は低めでも、まるで光の粒子が実際に目に見えているような気がするほど春の陽射しが踊っていて、多少寒い思いをしても、こんな日はできれば電車に箱詰めなどされたくないものだと思ったが、残念ながら、その日はそうはいかない事情があった。バイクか車の移動がほとんどの私に、妻がSuicaというカードを持たせてくれた。スイカとはなんとも奇妙なネーミングだと思っていたら、スーパーICカードの略らしい。単語をやたらにつづめるのは世界中でやっていることかどうかは知らないが、意味が想像できる範囲のものならともかく、そうでないのはなんとも記憶に収まりが悪い。そのネーミングを決める会議にもし私が出席していたら、スーパーICカードですから頭ひとつずつとってスイカはどうですかなどと提案する奴には、思いっきり軽蔑の眼差しを向けてやるところだ。それはともかく、その日の昼下がりの横浜に向かう東横線の特急の車内は、なんともけだるい雰囲気が満ちていて、居眠りしている人もあちこちにいる。乗降口近くに立つ私の目の前に座っていたのは、20代前半の整った顔立ちの女性で、その人も初めのうちは目をとじていたが、電車が菊名の駅を過ぎた辺りでやおら化粧を始めた。それもちょっとした修正という感じではなく、ピューラーというのだろうか、小道具を持ち出してまつげのカールを念入りに付け、口紅も引きなおす。そうこうするうちに、その女性から2−3人分離れたところに座っている、こちらはややきつめの、しかし賢そうな顔立ちの女性もコンパクトを覗きだした。なんと、バッグの中から小さなブラシを取り出して髪を梳き始める。さすがに隣の人は嫌な顔をしている。どちらも身に付けているものの印象からも、ごく普通の学生かOLのように見えるのだが、別に決まり悪そうな素振りはまったく見せない。電車の中で堂々と身支度する若い女性と、ちらちらとそれを見ているおじさんという、何だかとてもベタなシーンの出演者のひとりになってしまったが、今時こういう場面にいちいち驚くほうが珍しいのかもしれない。
その場所に居合わせたほかの人たちは、その二人のことを気にしている様子はまったく見られない。誰も彼もほとんど無表情で、私の目には、舞台でその二人の女性にだけスポットライトが当たってでもいるように見えた。誰もが周囲のことに無関心でいるというのは、当の自分の存在感さえもその場所から消してしまいたいということだろうか。心が動かないということは、ものになってしまうということだ。まだ学生の頃だからもう30年以上も前になるが、M・セシュエーという人の「分裂病の少女の手記」という著書を読んだことがある。この本は、ルネという少女が精神分裂症を発症してから、(最近はこの名称は使わないらしい。統合失調症と呼ぶらしいが、著書のタイトルがこうなのであえてこの名を使う)奇跡的な回復までに経験した出来事を、回復後に回想的に記録した部分が多くを占めている。症状が進行するにつれて、生命あるものを含め、目にうつる全てのものが人工的に緊張して見えるなど、非現実的なことが目の前に現れ、そういう感覚に支配されていく様子が克明に書かれているが、この電車の中で私は、まるでそこに出てくる情景を目の当たりにしているような気分になった。その本を始めて読んだ頃、私は、ルネの妄想とシュールリアリズムの画家の作品の世界の類似性に驚き、D.キリコやP.デルボーの絵に、自分の経験域の外にあるにもかかわらず、奇妙なリアリティーを強く感じたものだった。それが、さりげない形で現実になってしまっている。シュールリアリズムは、現実を超えた世界によって現実世界を逆照射する試みだったとすれば、今やあれは現実の写生だということになるのだろうか。
私は別に新もの好きではないから、デジカメやパソコンや携帯の新製品にはほとんど興味がないし、日進月歩のそうした製品の進化にも驚かない。所詮はただのものの消費に過ぎないのだから。何十年か前のSF映画に出てくるようなものが、今実現しているからといって特別の感慨は持たない。しかし、人と世界との関わり方にいつの間にか無視できない変化が起こって、相互の距離が極端に離れたり(無関心や無感動)あるいはいきなり縮められたり(溺愛や付きまとい)していることに気づかないわけにはいかない。古今東西を問わず、群像をモチーフにした絵画の中では、画面の中のすべての人物は相互になんらかの有機的な関係を持ち合っている。前世紀以前に描かれた絵で、群像が何の関係も持たず、てんでんばらばらに描かれていたとしたら、かなりの駄作だろう。そんな、どうしようもない絵のような世界が広がっている。

