志賀直哉だったと思うが、小学生ぐらいの頃だというから明治の半ばだろう、当時はとても高価なものだった自転車を祖母に買ってもらい、夢中になって乗り回して、時には港区にあった家から横浜まで遠出をして遊んでいたということを、自伝的な小説に書いていた。それを読んだときには、単純に自転車で横浜まで? と驚いたが、無理に脚色する必要のない部分の描写だったから多分本当のことだろう。そう言えば私も、子供用自転車を買ってもらえなかったにもかかわらず、小学校の夏休みに、生家のある街中から山ひとつ越えたところにあった海水浴場まで、電話局の払い下げの自転車に三角乗りをして通っていた。秋口になると、当時の国鉄の駅をふた駅ほども行った河口付近に、折り畳めもしない竹の竿を重たい自転車のフレームの水平なパイプに沿わせて結び付け、早朝から毎日のようにはぜ釣りに出かけた。疲れなかったはずはないが、疲れるかどうかということが行動を左右する理由にはならなかったのだろう。そんな話を職場でしていたら、その場に居合わせた私よりかなり年下の人たちも、子供の頃に同じような経験をしてきたと言っていた。昔の子供は、今の子供と比べて親と四六時中一緒にいるということはなかったから、子供だけで行動する範囲が広かったということなのかもしれない。その分、時には大小の事故に遭うこともあったし、ひどいときはそれで亡くなる子供もいた。
私は4人姉兄の末っ子なので、かなりませた子だったらしく、周囲はそれを利発さと勘違いしていたふしがあった。十で神童、十五で・・・・という奴で、運良く二十歳になるよりずっと前にただの人ということがはっきりしたが、お陰で小学生の頃は、ことあるごとにいろんな役目が回ってきた。近所に住んでいてしょっちゅう一緒に遊んでいた同級生のK君兄弟が、近くの湖にりんご箱で自作した伝馬船で漕ぎ出して二人とも溺死した。そのニュースのショックも覚めないうちに、私は学校から二人の葬儀で弔辞を詠むように言いつけられた。今でもどんな文章を読まされたかはっきりと思い出すことができるが、もし二人が湖に漕ぎ出すときに自分が居合わせたら、間違いなくいっしょに乗っただろうとわかっていたから、しばらくの間、私は、その事故の責任の一部が自分にもあるような気がしていた。正確には因果関係があるとは言えないことでも、一方的に後ろめたさや気まずさを感じることというのはあるもので、私の影響でというのがおこがましければ、私が乗っていることがきっかけのひとつになって、オートバイに乗り始めた友人が交通事故に遭ったりすると、なんだか申し訳ないような気がする。ましてや、それが一緒にいるときに起きたことだと、ほとんど加害者のような気分になってしまうものだ。
かれこれ20年以上も前のことだが、昔の教え子で当時まだ学生だった年下の友人が我が家に遊びにきていて、二人でバッティングセンターに行こうと、私は自分の大きなオートバイ、彼は私の妻の原付バイクに分乗して出かけた。道路右側の小道を入ろうとセンターライン上で停止していた二台のバイクに、運転しながら缶ジュースを飲ませっこしていたという、サーファーのカップルの車が突っ込んできた。二人とも数メートル飛ばされて、彼は自分の側の車線上に、私は反対車線に転がった。しばらくして、何が起きたのか状況が理解できて慌てて彼の方を見ると、道路に仰向けに倒れて動かない。慌てて傍に行って呼びかけると、返事はするのだが明らかに眼球がうろうろと定まらず、頭を起こそうとするが体に力が入らない。一瞬、私の頭の中では、彼のご両親の前に土下座している自分の姿が浮かんで、何でバイクになんか乗せてしまったのかという思いに強く襲われた。結局、私も彼も大事には至らずに済んだが、万一あの時もっとひどいことになっていたら、今とはまったく違う環境に私たちがいるだろうというのは間違いないだろう。もっとも、二人ともどうやら深刻な状態ではないらしいとわかって、大破した二台のバイクを道路わきに寄せて、ようやく到着した救急車で病院に搬送されながら、これで二台とも新車になるナなどと不謹慎な話をしていたのだから、馬鹿は死ななきゃ治らないの類である。
人と人は、無意識の部分でも互いに影響しあう。まして、教育の場で教えるという立場で出会った人には、一方が他方に大きな影響を与えてしまうことがある。皆がこちらを反面教師にしてくれるのであれば気も楽だが、そう都合良くは行かない。そんなことを考えても、それじゃあどうすればいいかという話にはならないし、気が重くなるだけなのだが、命に別状がない程度の精神的な痛い経験のひとつもしてくれればいい。それでも、半ば冗談半ば本音も混じって、マーケットに乗りそうもないスタイルの作品を、こだわって作っている元の教え子に、貴方に遭ってしまったのが災難でしたねぇなどと言われると、ドキッとする。

