雨漏りのする家の夢を見た。古い家で、夢の中の感覚では自分の家のようだ。外はかなり強い雨が降っていて、窓ガラスを通してみる風景が流れる雨でゆらゆらと動いている。ふと気づくと、軒先に近い場所の天井に大きな染みが広がっていて、ぽたぽたと雨が漏っている。肩に落ちたしずくを手で拭って掌を鼻先に持っていくと、微かに日向で強い日差しに板が焦げたような、埃のような薄茶色の匂いがする。雨漏りの水はどうして日向の匂いがするのだろうと思っていたら目が覚めた。夢で目覚めたというのに、なぜか妙に心地よく、しばらく夢の中の場面を思い出しながら布団の中でじっと目を閉じていたら、また眠りに入ってしまった。

実際には存在しないけれど、何度も夢の中に出てくる家がふたつある。今回はそれのどちらとも違っていたが、そのふたつの家もやはり雨漏りがする。ひとつめは、田舎の生家近くにあって、迷路のようなところを抜けないと行き着くことは出来ない。だから長い夢の時は、帰り道を必ず見失ってしまう。誰も住んでいない空き家で、大きな八角柱の形をしていて7階か8階はあり、各階に小さな軒が付いていて、柱以外は周囲がぐるりと細い木の桟に四角いガラスがはまった戸に囲まれている。そんな家には不似合いなほど粗末な木戸を開けると、中は窓側がぐるっと廊下で囲まれていて、廊下の内側に十畳間ほどの部屋が襖で仕切られて四つある。廊下は一箇所粗末な板戸で仕切られていて、そこを開けると急な階段があり上の階につながっている。上層階になればなるほど、部屋のしつらえがしっかりとしてきて、襖に描かれた絵も格調高いものになっていく。所々廊下のガラス戸の隙間から雨風が吹き込んだ跡が残っていて、最上階に上がると、さすがに廊下の端に近づくのはちょっと怖い。部屋の真中辺りの畳がふやけてほどけている。天井には明らかに酷い雨漏りの痕がある。もうひとつは、小田急線か京王線の都心から離れた駅の近くにあって、周囲が空き地に囲まれた中の一軒家で、これは比較的新しい。なぜか誰かから譲り受けたことになっている大きな家で、奥に吹き抜けの何十畳もあるような板張りの部屋があり、そこをアトリエにする気になっているが当面は何も置いていない。天井にはむき出しの太い梁が何本もあって、そこにいると、必ずその梁を伝って雨が漏ってくるのを体験する。夢の中では、そういえば前に来た時にも漏っていたのに、どうしてそのままにしておいたのだろう、というようなことをぼんやりと考えるのだが、何もしないで眺めている。

数年前まで住んでいた借家は、強い雨が降ると必ず数箇所で雨漏りがした。子供が小さかった頃は、洗面器やバケツを下に置いて飛沫が飛ばないようにタオルを中に敷いて、時には空き瓶まで動員して、大はしゃぎしていた。その家は、入居した時すでに、不動産屋が古すぎてあまりお勧めできないと言ったほどあちこちガタがきていて、せいぜい5−6年も住めればまたどこかに越せばいいと思っていたのに、結局それから20数年も住んでしまった。以前そこに住んでいた大家さんは、私たちが他の場所に引っ越してくれればすぐにその家を取り壊したいと思っていたから、家賃を値上げしない替わりに大掛かりになる修繕はまったくする気がなく、その代わり私が何をしても文句を言うことはなかった。やがて年頃になったふたりの娘たちは、小奇麗なマンションや戸建に住む友達と比べて、自分たちはどうしてこんな生活しているのだろうと複雑な心境だったに違いないが、日本の社会の仕組みでは、大学の教員でもしていない限り、現代美術の作家やオルガニストに自宅の購入費を融資してくれる銀行などあるわけもなく、楽器の音にも私道で作品制作をしてもどこからもクレームが付かない環境は、私たちには天国だった。

その頃の生活を懐かしんで雨漏りの夢を見たわけではない。八角柱の家は、かれこれ40年ぐらい前から何度も夢の中に現れるからだ。生家も古い家だったので時々雨漏りはしたが、器用な父が懸命に修理しようとしても、なかなか元の部分が見つからず苦労していた記憶がある。雨漏りというのは、規則的なようでいて、微妙にリズムが揺れるあの音といい独特の匂いといい、なかなかミステリアスだ。悲しいような侘しいような、けれどもちょっとユーモラスな感じもあって、放っておくわけには行かないけれど、簡単には対処できない面倒臭さもある。きっとそういう気がかりな感じが夢に出てくるのだろう。中心的な存在がものごとの本質を示しているということは、実はあまりあることではなくて、むしろ周辺にこそ隠されていると思ったりする。人生の大問題ではないけれど、ちょっと気がかりというのは、案外周辺性という点では無視できないもののような気がする。そこから何事かが読み取れればいいのだが、凡人の私にはなかなか難しい。ましてや雨漏りである。人に話せば、トイレにでも行きたかったんじゃないの?とでも言われかねない。