オペラというのは、歌と音楽と芝居が一体になったものだから、いうなれば生ものばかりを集めたパフォーマンスで、娘も今年はコーラスの一員として参加している。このところ連日のリハーサルが続いているようだ。四人家族の中でオルガニストの妻と声楽家の娘、二人の音楽家を相手にしては、多勢に無勢であるのはもとより、ふたりの会話を聞いていてもちんぷんかんぷんさっぱり理解できないから、普段はまったく無関心を通すことにしている。もちろん私のやっていることも、彼女たちにとってはキチガイ沙汰としか思えないだろうから、自宅で作品を制作していても感想を求めるなどということはない。私の展覧会に足を運ぶように誘うこともしない代わりに、彼女たちの演奏会にも、よほど稀な機会でもない限り顔を出すことはほとんどない。よくわかりもしないのに、他人が本気で表現行為に関わっていることに、家族だからといって知った風な顔をして首を突っ込むものではないというのが、私の立場である。私の生家の家族は、父も祖父もその前も勤め人であった。祖父は、健康を害して途中退職するまで国営放送局の職員をしていたし、父は民営化する前の電話局の職員だった。私が大学に入学する前年に祖父は亡くなっていたが、父は、妙なことを始めた末っ子の息子の描くものについては、それとなく関心を持って見ていた気がする。受験浪人の頃に、一応本気で勉強していることの当てにならない証明代わりに描いた絵を2‐3点持って帰ると、後で廊下の壁にその絵を掛けていたりした。学生の頃、多分まだ学部の2‐3年生の頃だったと思うが、何かのついでに両親が私の住まいに顔を出したことがある。描きかけの作品を目にして父は、昔のほうが上手かったなとつぶやいて、それ以降はまったく私の作るものに関心を示さなくなった。それは、自分でもまだ確信の持てない方向に動き始めようとしていた私への、父からの最大の贈り物だった。
たまたま娘が参加したオペラは、演出はもとより振りつけなど主なスタッフはすべて外国人らしく、リハーサルの様子を珍しく私がいるところで話していた。外国人のスタッフはリハーサルの間中、基本的にコーラスを褒めちぎるのだという。噂には聴いていたが、これほどだとは思わなかったと可笑しそうに笑っていた。コーラスの誰もが、これはまずいと自覚するような演技をしてしまったときでも、まず口をついて出るのはグレイト!!という言葉で、その後で、ここはこうなったらもっと良くなるという言い方をするらしい。幾らなんでもちょっと酷いなという時でも、それは変わらないそうである。そういえば、映画監督でも芝居の演出家でも、役者に灰皿を投げつけるというのがトレードマークのように言われている人もいるようで、日本では褒める事より貶す事の方が普通だと思われている節があるから、これはなかなか興味深い。ちょっとばかり売れてきていくらかいい気になっている役者が、制作のイニシアティヴを握っているスタッフにぼろくそに言われることで、マゾッ気が刺激されて余計な色気が取れるのだろうというのは冗談で、これは、まさに意識の違いの現われだろう。人にものを教える仕事をしているとつくづく実感することだが、この国では、一般的に良し悪しの判断を人に任せるとか、自分がやるべきことについて他者からの指示待ちをするのがあたり前だと思われている。プロスポーツ選手の、トレーニングから私生活までの組織による管理とか、学校の受験に備えた子供の生活管理などはいうまでもなく、日々の生活の家計管理や家事全般は妻に管理させ、個人の将来の生活設計まで、肝心なところは国や自治体に管理させて身を委ねてしまう。要するに子供なのである。
瑣末なことは人に任せて、自分は大所高所からはっきりとしたビジョンを持ってものごとを差配するのだというのなら、それは一概に子供だとは言えず、むしろ大人(たいじん)の風格の御仁なのかもしれないが、レベルの設定からそこに至るのに必要なプロセスの構築まで他人に依存して、終いに、思うように行かないのは自分のせいじゃないというのは子供だろう。子供は誉めて育てろという言葉が完全に誤解されていて、自分自身に対しての期待感や義務感を持たないまま育った大人は、誉められるとそれでいいのだと簡単に思い込む。その結果、目覚ましいレベルアップが果たせないのは指導者が悪いと言われるぐらいなら、脅しまくって押し付けてでも引っ張っていくのがいいという話になってしまう。咽の渇いていない馬に水は飲ませられないというが、飲ませるためにどうすればいいかではなく、自分が呑みたいのはどういう水で、それに辿り着くには何をどれだけやらなければならないのかを知ろうとしなければ、その馬はいつまでたっても家畜のままだ。プロスポーツの話題と、トレンディードラマと、消費物資をふんだんに与えておいて、時々官民の中からスケープゴートを引っ張り出して、存分にバッシングさせて鬱憤晴らしさせてやれば、後は悠々閑閑とついてくる国民。政治家にはこんな楽なことはない。そして、その政治家たちの操る国は、政治的にも経済的にも同盟国とは名ばかりの恫喝超大国にいいようにあしらわれる子供である。
怒鳴り散らされて喜ぶほど馬鹿ではなく、誉められていい気になるほどガキでもない、やるべきことは自分でやれて、自分は自分で管理する、人に抜き出た能力など無くてもいいが、せめてそういう大人でいたいものだ。

