職場の自室に、置き場に困った私の作品が大小合わせて13‐14点壁に掛けてある。自分の作品を壁に掛けるというのはいかにも悪趣味だと言われそうだが、たとえ平面作品でもいつも作っておればそのうち膨大な量になる。自分の作ったものすべてを保管しておくとかデータとして整理しておくというのは、作り手自身のすることではなく、万一そうしたいという人がいればその人がやればいいことだと思っている。だから捨てたものもあれば人に譲ったものもあるが、それでも完成した作品をすべて敵のように廃棄するわけにはいかないから、結局かなりの数溜まってしまった。それが行き場を失って壁に掛けてあるのである。時々作品の書き込みを見ると1980年代に作ったものもあり、つい数年前に作ったような気がしていたのに、そんなに時間が経ってしまったかと驚く。ほぼ30年近く前に作ったものなのに、具体的な素材や技法は変化しても、基本的に考えていることは今と大きな違いがないのは、私に進歩がないということなのか、それとも人間なんて大抵そんなものなのか、よく判らない。
友人が、30年近く前に発売されていたオートバイを手に入れた。1980年代初めに、数年間私が乗っていたものと同型である。ヒラヒラと身軽で、その気になれば爆発的なパワーでカッ飛ばすことが出来るものという、ステレオタイプなイメージしかオートバイに持てない人には、良さがまったく理解できないだろうという代物だ。今時の大型バイクも凌ぐほどの巨大な図体と、厚さが20cmはあろうかというボテッとしたシート、軽自動車から外して取り付けたといっても何となく納得してしまいそうな大きなラジエターの後ろに、V字型に突き出したエンジン。シートにまたがった瞬間に三十年ほど前の感覚がよみがえり、何のストレスもなく動かすことが出来た。動き出すと、見かけの鈍重さとは裏腹に路上をするすると滑るように走る。強引にアクセルワークをして先に飛び出したいという気がまったく起こらない。穏やかで優しいなどと一度も人に言われたことのない私が、しかも血気盛んだった若い頃に、こんなオートバイが好きだったということに驚いてしまう。もう少しで、こう見えても案外おっとりした性格なのかもしれないと誤解してしまうところだ。絶滅危惧種に指定される資格十分の、このオートバイのオーナーには幾つかのタイプがあるという。一目惚れでお付き合いがはじまりそのまま一筋に愛してきた人(初恋成就系)数度の浮気の後”やっぱり俺にはお前しかおらん”と再度付きあい始めた人(再燃系)学生時代気になってはいたものの数年後のクラス会にバツイチ〈もしくはバツニ〉になっていた彼女と再会、付き合い始めた人(クラス会出会い系)などなど。友人は再燃系である。末長い幸せを祈りたい。
大人の恋に余計な口を出すわけではないが、なにぶんにも相手は熟女、いつ何時思わぬ不調が起きるとも限らないので、老婆心ながらメンテナンスについていろいろと調べてみた。息の長い部品供給を誇っていたメーカーなのに、創業者が亡くなってからみるみるうちにバックアップが貧弱になってきているという。アメリカでは、いまだに何十年も前の車やオートバイが使われているため、そのメーカーの純正部品でなくとも、部品の調達は細かいものまで比較的容易だというが、古くなったら買い換えるということを国民の常識にすることに成功したこの国では、さっさと在庫整理して修理不能ということにしてしまうらしい。バイク本体の部品ばかりではなく、付属の消耗品も適合するものがひとつかふたつになってしまっていて、草の根分けてでも探し出さなければ、故障しているわけでもないのに動かせないぞということにもなりかねない。30年も前のものにいまだに価値を感じているなどというのは、時代の進歩についていけないのろまのすることだと言わんばかりの仕打ちだ。ということは、80年代の作品のコンセプトに今とさほどの変化を感じない私は、のろまの最たるものだということになる。なんだか面白くない展開になってきた。
相変わらず、国の内外から薄汚い話が次々と表に出てくる。年金も牛肉も談合も天下りも、登場人物が比較的私と近い世代のものが多いだけに、十代の若者を相手にしている仕事柄恥ずかしくて仕方がない。ズルしてもばれなきゃいいみたいなスタンスがあたり前という話ばかりである。これが最新のライフスタイルなのだろうか。実体のともなわない法人の資産総額という数字が一人歩きして売り買いされ、濡れ手に粟をいつも夢想して人の営みまで消費尽くそうというこの社会で、無意識に植えつけられた価値観など信用するな、自分の目で価値を見つけろ、メディアが持ち上げているからといっていいものとは限らない、などと若者にアドバイスしても、ほとんどギャグにしかならないじゃないか。牛の挽肉への不正な混入をやめるよう進言したことはなかったのかと聞かれて、雲の上の人ですから・・、と答えた例の肉屋の工場長の子供は、どういう気持ちでテレビのニュースの父の姿を見ただろう。仮に人の一生を80年として、50代後半は一日の時間に換算すると午後5時ごろになるらしい。私のアフターファイブは、プレファイブと何も変わらないことになりそうだが、それならそれで、30年経ってもまだ満足できる作品を作れないでいることに、いつまでもこだわり続けていくしかないだろう。

