連日猛暑が続く。アスファルトへの日差しの強烈な照り返しに、負けてたまるかと思い切って飛び出しては返り討ちにあっている。日に日に食が細くなり、塩気のある肴が少しあれば、軽く飲んで寝てしまいたいという日が続く。子供の頃は、好き嫌いせずに何でも食べなさいと厳しく躾けられた。何でもといっても、今思えば、当時口に出来るものはかなり限られた範囲のものであり、その中での何でもであったから、食卓に出されたものはすべて一応食べることができた。それでも、八人家族に居候が一人の合計九人が食べていくのは、裕福ではなかった我が家には結構大変なことだったのだろう、私はビタミン不足からだろうか、上下の唇が貼り付いてしまうという病気になった。癒着した唇に、紫色の塗り薬を塗られて、化け物のような顔になったのをはっきりと憶えている。成長に必要な栄養が、質、量ともにぎりぎり口にできる環境で好き嫌いなど言っていたのでは、それこそ命に関わることにもなりかねないから、そういう意味では、好き嫌いするなというのは、最も基本的な躾であった。ただし、私の場合は、好き嫌いなく何でも食べたというのは食べ物だけではなかった。テレビのなかった時代、夕食の後寝るまでの夜の時間は長かったし、雨や雪の多い山陰の街で育った私は、天気の良くない休日は家の中にいる時間が多かった。母や姉が読書好きだったこともあって、大きな本箱にはぎっしりと本が詰まっていて、字が読めるようになると、難しい漢字は前後の流れから読みの見当をつけながら、それらを私は片端から読んでいった。面白くないからといって途中で放り出したという記憶がないのは、そんなことをしたら、読める本がすぐになくなってしまうのを知っていたからかもしれない。そうなったら、家の中で何をしていたらいいのか、私には想像も付かなかった。

      

翻って、飽食の時代の今の私は、偏食の最たるものである。健康に良いというキャッチフレーズが付くものは、それを言われるだけで食べる気が失せる。イタリアも沖縄も韓国も何も好き好んでそんなもの食べなくても、と思ってしまう。もちろん、魚中心ではあるがたんぱく質系のものと野菜と乳製品などは、何かが不足しがちになった時は必ず食べたくなるから、特に偏らずに食べているし、それもできる限り自分で調理して、もう数十年来の玄米食である。ただ、これらはすべて好きだから食べているのであって、努めて食べているわけではない。しかも、食わず嫌いなものが実に数多くある。海鼠も内臓肉も好きだから、別に見た目がグロテスクなものを食わず嫌いになるわけではなく、見慣れない食材に手を出さないだけである。菓子類はほとんど食べない。それでも、昔の何倍もの種類の食材を口にしているのは確実である。ところで、最近は、食べ物の種類や量も過剰なら、情報の種類や量も同じく過剰である。しかもかなり意図的に選択された上での過剰さだ。差し出される過剰な情報にいちいち素直に手を出していると、自分が知りたいことがなんだったのか、知らなければならないことが何なのかが、わからなくなってしまう。その結果、情報に触れ続けているだけで自分が時代に取り残されずに生きていると錯覚したり、露出度の多い情報に注目したり同調したりすることが、自分の意識の健全さを示していると勘違いする。そろそろ、自分の知りたいことだけに絞った情報との接し方を、考えてもいいのかもしれない。不足感は、ある意味でコンプレックスになる。それが飢餓であれば、完全なトラウマになるだろう。人間のDNAに刻み込まれたコンプレックスやトラウマは、状況がかなり改善されたとしても簡単には記憶から消すことは出来ないが、敢えて過食を慎むよう努めなければ、新たな煩いを生むことが十分予測出来るにもかかわらず、いつまでもそのコンプレックスに動かされて食べ続けるというのは、情けない話だ。

      

直接それに関わった個人にとっては瑣末とはいえない出来事でも、必ずしも社会全体で関心を注がなくてはならないこととは言えないような、さまざまな情報の氾濫する中で、私にとって最も気がかりなことは、憲法改定への動きが着々と進行していることである。ひと月前にあったことも、ずっと昔のことのように思わせてしまうほどの、大小さまざまな情報の更新の影で、後戻りの出来ないことがらがそっと進められているのだ。憲法、特に九条の一部に手を付けることのリスクもリターンもきちんと明らかに提示されないまま、あれは押し付けられたものだとか、いつでも国際協力できるようになるとか、情緒的な話だけをチラチラとメディアに流し続け、何となくそれもそうだという気分になってきている人が増えてきている気がする。情報の洪水の中で、どこに危険な河があったのかが見えなくなってしまっているのだ。普通に生活しているものにとって、必要な食べ物の種類も必要な情報の量も、それほど多くあるものではない。偏食すべきである。いろいろ食べなくていいから、自分の口にしたものをじっくりと味わう。間をおいて何度も味わう。それで唇が貼り付いてしまう心配は、もうしなくていいのだから。

      

久し振りに1960年代のロックグループ、ジャックスのCDをパソコンに流しながらこの原稿を書いていたら、なんだか思わぬ方向に筆が進んでしまった。そういえば、音楽も美術も誰憚ることなく偏食できるもののはずなのに、大勢の人が同じものを美味しいと思い込む傾向があるのも、不思議な話だ。