めったに子供をつれて出かけることのなかった父が、勤務していた電話局と契約していた民宿を使って、私と兄のふたりを一泊二日の海水浴に連れて行ってくれたことが一度だけあった。 そこは、私の生家からバスに小一時間も乗れば行くことができる小さな漁村で、どうしてわざわざ泊りがけで出かけたのか理由はわからない。湾を挟んで反対側は当地ではもっともメジャーな海水浴場だったが、 最盛期の休日でも浜辺にはせいぜい500人ぐらいしかいない。平日にでも行こうものなら、どこかの団体がバスで押しかけてでもいない限り、ほんの数十人が水辺で遊んでいるだけである。 子供の背丈で底の砂に足が届く程度の深さの場所でも小魚が群れを成して泳いでいて、砂浜の途切れる辺りにある岩場ではトコブシやサザエなどが簡単に獲れて、別に咎められることもなかった。 それから20年ぐらい経ってから、幼い自分の子供たちと友人を連れて一度そこでキャンプをしたことがあるが、そのときでも浅瀬を泳ぎながら簡単にメゴチを刺すこともできたし、 サザエも食べ飽きるほど獲ることができたから、多分その様子は今でも変わらないだろう。人口が減り続け、産業らしい産業は原子力発電所ぐらいしかない田舎では、変わりようがない。 最もメジャーな海水浴場でさえそうなのだから、父が私たちを連れて行ったところは、民宿とは名ばかりの漁師の家がまばらに建っているだけの、簀(すのこ)に干された小魚の匂いがむっとするほど立ちこめている港で、 海水浴客と思しき人影はほとんどなく、もちろん海の家などひとつも建っていない。まだろくに泳げなかった私を、父は、しっかり首に掴まってろと言って、 背中に乗せて平泳ぎで係留されている小さな漁船のところまで連れて行ってくれたり、浅瀬で私を振り落としたりした。すでに泳げるようになっていた兄は、ほとんど一人で泳いだり潜ったりしていて、やがて父は、一人砂浜に上がって裏返しにして置いてある小船の上に腰を下し、時々泳いでいる兄のほうに眼をやったりしていた。何かの拍子に、肩がわずかに海面から首を出すぐらいの深さのところで、息を止めてしゃがんでから海底の砂を蹴ると、いとも簡単に水面から顔を出して呼吸することができるということを、私は発見した。砂を蹴る時にやや後ろ側に蹴れば、少しずつ前に進むことができる。下手に泳ごうとするとひどく疲れてしまうのに比べて、このやり方だとほとんど身体は疲れない。この大発見で、私はどこまでも泳ぐ(?)ことができるし、その気になればどんなに遠いところまでも行けると思った。たとえアメリカまででも。それで、溺れた。
山でも河でも湖でも、少し長じて乗り物に乗るようになってからは余計に、私は大怪我するか、ヘタをすると命が危ないという目に何度も遭った。とっさの思いつきや運動神経のよさで危機を免れたわけではなく、ただの偶然で大事にならずに済んだだけである。どうしてあんなに無鉄砲だったのか未だに良くわからないが、頭のタガがかなり緩かったのは間違いないだろう。部屋遊びが好きで、特別おとなしく子供時代を過ごした人はともかく、男の子ならスポーツや遊びの中で一度や二度の骨折はあたり前にしているものだと、かなり最近までそう思い込んでいた。私の周りは、一度も骨折などしたことがないという人がほとんどだから、どうも違うらしい。ちなみに私は、決して華奢なタイプではないが今までに6回骨折している。だから、今生きているのはただの幸運だなぁと時々思うことがあるが、図らずも大きな戦争に駆り出されて九死に一生を得た私の父の世代の人が、何かの折に彼らの万感の思いを込めてそう呟くのに比べて、私の言葉は、もちろん紙のように軽くて薄い。それは重々承知の上で言うのだが、それでもただの幸運で今まで生きているのは確かだと思う。ことが過ぎた後でぞっとしたという経験は数多くあるが、まったく逆もある。自分勝手に生きてきたくせに、珍しく、自分や家族のためだけでなく直接関わっている人たちすべてのために、どうしても果たさなければいけない責任が生じたとき、医師に肺癌の疑いを告げられた。一年前の検診のレントゲン写真を取り寄せて確認しても、同じ影は見当たらない。念のため結核も視野に入れて毎朝起き抜けに採痰して、ある程度の日数分をまとめて検査しても結核菌は見つからないという。ただし、他のいろいろな検査の結果を見るとガンに繋がるデータも出てこない。その間に念のためにCTを撮ると、明らかに影はくっきりと写ってわずかに大きくなっている。友人でもあるその医師は、可能性として考えられるのは癌か結核のどちらかが最も大きく、最終的には肺の内視鏡で細胞を採って病理検査するのが最も確実な診断だろうという。その間約3週間は、これで万一自分の責任を果たせなくなったら、誰にどう後を託せばいいのかということだけを考えていた。 不思議と恐れを感じなかったのは、これまでが幸運なだけだったのだという思いが強かったからだと思う。結局それは、癌でも結核でもないという結果になったが、命拾いしたと特別大喜びもしなかった。
教え子の父上の、二冊目の詩集が出版されたという知らせを頂いた。彼我の個人的な関係は別にして、一冊目の詩集を読んだ時の印象がとても強かったので、お招きいただいたご家族によるささやかな記念の宴に出席して、ひと言お祝いを申し上げたかったのだが、果たせなかった。恋をし、結婚し、公務員をしながら家族を養い、その、凡々たる自分に厳しい眼差しを向け、時にはその眼差しを家族にさえ向けている自分を、じっと見つめて書き続けられた詩は、とても重い言葉の連なりだった。命という言葉は、死の反語としての生を指すだけではなく、人の営みそのものを意味してもいいと思う。私の祖母は、生前家のことを命と呼んでいた。数十年に及ぶ人ひとりの生き方を貫いて書かれた言葉は、命懸けの言葉と言ってもいいのかもしれない。

