江戸の街はとても清潔だったという。し尿や生活ごみまで、肥料などに使えるものは徹底的に使いまわし、着物などは、着古すと解いて布地を使うさまざまな用途に転用し、最後は雑巾として擦り切れるまで使った。習字の練習で真っ黒になった紙までも、すべて回収して手を加えて再使用していたというからすさまじい。これでは街にゴミが散乱する余地は無い。明治以降、近代化が促進されると、生産の現場では不要なものの廃棄は盛大に行なわれることになっただろうが、一般の社会がこういう使い捨て状況になったのは、ほんの30〜40年前あたりからだ。祖父母が生きていた頃は、天気のいい日に庭の片隅で解いた着物の洗い張りをしたり、風呂用の薪の中の不揃いなものを手斧で小さく割って、七輪の焚き付けを作ったりする姿を見ることができた。祖父は、年末の障子紙の張り替えの時、障子の桟に沿って剃刀で切れ目を入れ丁寧に下から剥がして、その紙でメモ帳やタバコのパイプ掃除のための紙縒りを作って年中それを使っていた。貝の味噌汁を食べると、母は貝殻を洗って家の近所の泥道の窪みをそれで埋めて、雨の日に水溜りができないように気配りしていた。役に立つか立たないかということは、このように本来ユーザーの決めることであるはずなのに、今ではその権利は完全にユーザーの手から奪われてしまっている。捨てきれないほどのゴミやガラクタが溜まり、それが家の中や街に溢れている今の状況は、過剰生産・過剰消費で支えられる経済の仕組みが崩壊しない限り、絶対に変わらないだろう。いくらか借金を返すために、新たに借金をしてその場をしのぐサラ金地獄のような状態に、国の財政だけではなく人の価値観までが陥ってしまっていて、ある種のヒステリー状態にあるからだ。本来、使い古して一応御役御免になったものは、不思議な魅力を持っていて長く手元に置いておきたいような気分になるものだが、最近はそういう感覚をスポイルする方向に社会が動いているから、役に立たなくなったものは簡単に排除される。人間も含めて。
デザインは、多くの人に支持されることでものに付加価値を与え、それによって経済にも大きな影響をもたらすものだから、社会の中でしっかりとした存在価値があるが、アートは良し悪しの判断基準となるものがあまりにも曖昧で、完全に個人の感性に委ねられているから、所詮作り手の独りよがりのものだという人がいる。つまり、役立たずだということだ。心優しき人の中には、いやいや役立たずだからこそこの世知辛い世の中には必要なのだよと、慰めだか何だかよく判らないことをいう人もいるが、余計なお世話である。自分のしていることが、世間様の役に立っているか立っていないかという秤を持ち出さねば不安でならないほど、恐る恐る生きているわけではない。まずは自分自身がどれだけ手ごたえを持てて造れるかが問題であり、稀に人がそれに共感してくれることでもあれば嬉しい。それで十分である。そんなことをぼんやりと考えていたら、役立たずという意味ではアーチスト裸足の人たちのことを書いた本が目に入った。「素数の音楽」という、素数に魅せられた数学者達の何百年にも渡る格闘の歴史と、その魅力について書かれた本である。私は、算数が数学と名前が変わって比較的早い時期に、興味を失った前歴がある。そういえば聞こえはいいが、早い話が理解できなくなった。三角関数あたりから答えがわからなくなり、その先は質問の意味もわからなくなり、すぐに用語もわからなくなった。そんな私が高等数学の本を読んで何が解るかといわれれば、解るはずが無いのである。ゼータ関数の自明でない零点は、全て実部が1/2の直線上に存在する、と言われてもちんぷんかんぷんで、まだしも、解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の不意の出会いのように美しい、というフレーズのほうが100倍も解りやすい。かろうじて私に解るのは、素数という数が1とその数以外のどんな自然数によっても割り切れない数で、2, 3, 5, 7, 11, 13, 17, 19, 23,・・・と無限に続き、それらの数の分布に何一つ規則性が見つからないということぐらいだ。その解明の大きなヒントになっているのがリーマン予想と言われる学説だが、150年ほど前のその学説が世界中の最も優秀な数学者が挑み続けても、いまだに証明されていない。
素数の存在自体は数学の世界では大きな謎だが、それを解明することが科学の進歩に繋がるかといえば、その可能性はほとんど無い。それにもかかわらず、多くの高い知能の持ち主の数学者がその解明に挑み続けて、すべて敗れているという。今のところ発見された最大の桁数の素数は、980万8358桁の素数らしいが、試しにインターネットで検索してみると12457502601536945540085550157479950312・・・・と、延々と続く数字が出てきた。この素数を全部A4の紙に印刷すると1800ページにもなるらしい。数学のわからないものがいうのもおかしな話だが、この役立たずの存在はなんと美しいのだろう。この膨大な素数に規則性が見つからないということは、数と数との隙間に完全に無秩序な、しかし放埓では無い「間」があるということだ。生まれ変わりということがもしあるならば、次の生は数学者という役立たずになってみたいと、そんな気がした。

