常軌を逸した犯罪などがあると、犯人を指して、あいつは人間じゃない獣だと言ったりする。確かに凶悪な犯罪のニュースに触れると、人間社会の掟を踏みにじるのだから、そいつを獣だと言いたくなるのは解らないでもないが、獣には獣の掟があって、彼らは自分たちの掟を守ることにはことのほか熱心である。なんだか随分な言いかただと思わないでもない。せめてヒトデナシぐらいにしてはどうかと思う。ヒトデナシというのは随分古めかしい言い方だから、昔からそう呼ばれるような奴は少なからずいたということだ。そういえば、イクジナシとかアヤナシとかロクデナシとかいう言い方もあって、このあたりになるとまんざら身に覚えがないわけではない。ちなみに、この世で人間ほど自分勝手な生き物はいない。理屈にならない理屈で何でもやる。むしゃくしゃしたからと赤の他人を突然刺し、正義のためだと原爆も落とす。自分の体を張ることもしないで、安全な場所からボタンひとつ押して老若男女見境なく殺す。こんなことは人間以外にはやらない。そう考えると、人様からヒトデナシと言われたら、むしろ礼の一つも言うべきだということになる。赤血球数と血色素数というものの数値が、成人男性の健康値の下限をはるかに下回り、女性の数値の下限をも下回るようになって、健診の判定がe判定になってしばらく経つが、男らしくないから始まって女っぽくもないというところも過ぎて、いまや人らしくないということになってしまったから、これはヒトデナシということだろうか。

      

顔に似合わず、生き物を飼うことが嫌いではない。子供が小さいころは、借家の庭にW2000×D2000×H2000ほどの禽舎を作って3−4種類の小鳥を飼っていた。小鳥たちは何年もの間その禽舎の中で繁殖して、それぞれの面白い生態を見せてくれていた。その後、禽舎を取り壊してからは、室内でカナリアや手乗りのセキセイインコを飼った。このインコはやたらに物覚えがよく、犬の鳴き声や、犬を叱る人の声、電話の音などの真似を盛んにした。ほとんど同じ時期から、犬を飼い始めた。この犬は、和犬の雑種で、かなり柴犬の血の濃い犬だったが、貰いにいったときは生後二ヶ月ぐらいだっただろうか、ゲージの中でほかの兄弟と団子になっていた。どれでもお好きなのをどうぞというので、私は中でも一番威勢のいいしっかりした奴を貰おうとしたが、娘が、ゲージの隅っこでほかの兄弟に踏んづけられている情けないのを指して、あの子がいいといってそれに決まった。ゴンベと名づけたその犬は、それから16年生きたが、最初の印象どおり弱虫で気の優しい犬で、下の娘が小さかったから絶対に人を噛んではいけないと躾けたら、口にしたものをいきなり噛むことをせず、必ず軟噛みして一度口から出してから食べ直す犬になってしまった。和犬は、一般に猟犬の血が濃いためか、我が強く、主人のいうことには服従するがほかの家族には序列をつけて振舞う。室内飼いの洋犬のように、甘え放題甘えるという風な性質ではない。下の娘が高校生のころに、敏感な子の思春期にありがちな軽い鬱状態になったことがある。食事もろくに摂らなくなり、痩せ細って顔の表情も硬いまま、話しかけても最小限の返事しか返ってこない時期がしばらく続いた。それでも、今から思えば最悪の状態のときでも、ゴンベは娘に散歩に連れて行ってもらうのを待ち望んでいて、我が家の家族では一番下の序列をつけていたその娘を外に連れ出し、あっちこっち引き回した。高校を卒業するころには、娘は薄皮を剥ぐように回復して元の積極的な生活に戻っていったが、犬が犬であるというそれだけのことが、人の気遣いなどではどうにもならない休息を、どれほど娘に与えていたかと思う。晩年は寝たきりになって痩せ細り、私の声には反応しなくなってからも、音域が高いからかどうかは知らないが、二人の娘の呼び声だけにはわずかに耳や目を動かしていた。私がアトリエに一人行っていた夜、オムツをしたまま上の娘に抱かれて、その懐で息を引き取った。

      

犬は、擬人化して人がいうほど、人と近い思考をしているわけではない。5分前にあったことなどきれいさっぱり忘れてしまうし、自分がすることの理由を理解しているわけではないから、条件反射で身につくまでは何も覚えない。心地よさだけが唯一の価値基準なので、褒められたい一心で人と一緒に行動し、我慢することも覚えるが、褒めてもらえないことについては気ままに行動するだけである。人間の1-2歳程度の知能ではないかと思う。長い時間をかけて人が畜育して、人に従い人と信頼関係を持つことを無上の喜びと感じる生き物に作り上げた。だから畜生という。晩年は寝たきりになり、体が歪んで一方方向でしか横になることができず、床擦れができて気の毒な状態が続いたゴンベが死んでから、私は二度と犬は飼うまいと決めていた。それなのに、ある時あっけなく娘たちの策略に引っかかって、今はユキチという真っ黒なシュナウザーを飼っている。元は、馬小屋に出没するネズミ退治のために作られた品種だそうで、狭いところにもぐりこめるように体が柔らかく、人に対しては猛々しさのない愛想のいい犬である。躾にしくじって、家の中では絶対に用足しをしようとしないので、家人がちょっと外出するにも帰宅時間を気にしなければならないという、ちょっとした不自由さはあるが、誰に対しても帰宅時に見せる歓迎振りを見ていると、それぐらいは引き受けてやらなくてはという気になる。自室で、小品作りの下準備をしていて下地を枠に張り損ね、思わず畜生!!と口にしたら、ユキチと目が合った。