三丁目の夕日という映画が評判になり、その続編もできたという。昭和30年代の東京を舞台にした映画で、あの頃はたとえものはなくても夢があったという、お決まりの懐古趣味たっぷりの映画らしい。エンターテインメントで絵空事を楽しむのは構わないが、最近は、平気でそういうことを言う人があちこちにいるから困ったものだ。ワーキングプアとか格差社会とか下層階級などいう、ひとたび今の世相を表わすキャッチフレーズができると、何でもかんでもそのフレーズで語ろうとするのは、メディアの常套手段だ。片方の手で盛んにそのフレーズを振り回すかと思えば、もう片方の手では過去を都合よく作り変える。昭和の半ばは、みんなが貧しくて、それでも暖かくて、将来に希望が持てたから活き活きしていたなどというのは、真っ赤な嘘である。自殺、誘拐、無差別殺人、薬物中毒・・・何でもあったし、今と比べるとはるかに高価だった外車に乗っている金持ちもいれば、給食費や修学旅行のお金が払えない同級生もいた。いじめもあった。何人もの家族が毎日働いているのに、一向に暮らし向きの良くならない家もあったし、金の卵などと持ち上げて、地方から都市へ中卒の低賃金労働者を大量に送り込む、集団就職などというシステムが作動していた。今と大きく違うのは、メディアが人の意識や関心をリードする力を、これほど持っていなかったということではないか。上の娘が小学生になる頃だったと思うが、我が家では故障したのを口実にテレビを捨てた。それから、多分10年近くはテレビを置かず、チューナーがついていない、ビデオの再生専用のモニターだけがあった。そのブランクの後、再び我が家にテレビが置かれてしばらく振りに番組を見ると、番組の演出のされ方や情報の選ばれ方が、あまりにもっともらしく偏っているのに愕然とした。それ以来、情報を選択的に仕入れるツールとしては使うが、あのメディアで取り上げられる情報の頻度やその解釈は、重大さの指標としても分析の確度としてもまったく信用していない。視聴率稼ぎに加工された情報について、○×の選択だけを求められるのは、御免だ。
例えば海辺や高原で、子供たちに何でもいいから好きなことをしていいよと言うとする。一瞬ためらうことはあっても、次の瞬間には水を得た魚のように生き生きとするだろうというのは、大人の作った神話である。実際、幼児から今の二十代前半までの若者の大半は、ある種の集団心理が働く状況を別にすれば、そういう場面に出くわしたら何をしていいかわからなくなるのではないか。不安すら感じるのではないだろうか。つい先日の新聞の若い夫婦を扱った特集で、夕飯を食べ終わるとそれじゃあまた明日と、自室に籠ってパソコンゲームに没頭する夫を記事にしたものがあった。女が、そんな男と別れもせずに一緒に暮らしいるというのは摩訶不思議な気がするものの、そういう男がいること自体は、別に不思議でもなんでもない気がする。悪天候などが理由で外に出られない時の、しょうことなしの遊びがゲームであったはずが、塾通いを強制する代償のように子供にゲーム機を買い与える親が増え、ひとり遊びしてくれるなら静かでいいと、口封じの飴玉代わりに与えてきた。そうして育った子供が大人になっただけである。それでもまだ足りないと、最近は、さまざまな仕事のおもて面を真似て遊ぶ施設までできている。新手のテーマパークかと思っていたら、そうではなくて高校生ぐらいまでを対象にした職業体験の場だと言う。馬鹿言っちゃいけない。仕事を体験するというのは、そんなところで大工仕事の真似をしたり、テレビ番組を作る真似事をしたりすることではない。嫌味を言われたり怒られたりの連続の中で、自分の無能さを思い知ることだし、精一杯やって多少のお金は貰えても、めったに感謝もされないし誉めてももらえないということなのだ。仕事までゲーム化して、いざ現実との乖離に直面した時は一体どうしろと言うのだろう。それじゃあまた明日と言って、パソコンゲームに逃げ込むか。
美術家は夢想家だと思われがちで、もしそうなら私は美術家には向かない性格なのかもしれないが、かなりの現実主義者である。近い将来巨大地震が起きて、この国の経済は莫大な債務を抱えたまま、壊滅的な打撃を受けるということをほぼ確信しているし、先進工業国の人口の何割かが死亡するぐらいの、地球的規模の大災害でも起きないことには、温暖化は止まらないと思っている。今の子供たちは、将来、私が経験してきたものよりずっと過酷な自然環境や、経済的に厳しい状況で生きていかなくてはならないだろう。ただ、現実主義者ではあるが悲観論者ではないので、その先に必ず新たな建設が始まるという希望は持っている。希望はあるが、夢は必ずかなうとか、いつか本当の自分に会うことができるとか、そういう益体もない話は、現実から目を逸らさせるだけの意味しかないと思っている。遊ぶために作られたものでしか遊べず、原型のわからないほど加工された食品ばかりを口にし、加工された情報に振り回され、甘い夢物語を吹き込まれ続け、イヤホーンを片時も耳から離さず周囲から自分を隔絶し、気の合う人としかかかわらないのでは、現実はどんどん遠くに行ってしまうだろう。楽しみは自分で作るものだ。仕事が好きになるには、ひたすら訓練しなくてはならない。夢があって、それを実現するために大変な努力をすることができれば、その努力の過程でいろいろな収穫を得ることはできる。ただし、夢が実現する可能性は必ずしも高くはない。生きていくのは、とてもまわりくどい面倒臭いことなのだ。それを端折るとろくなことがないのだとしたら、もしかしたら、convenientということは、実は酷くinconvenientなことなのかもしれない。

