最近のこの国の家族の食事の実態を表す言葉に、コケコッコというのがある。孤食(一人で食べる)、欠食(食事をしない)、個食(ひとり一人中身の違う食事)、固食(いつも同じ内容の食事)という四つのタイプの頭の一字を並べた言葉だという。一人暮らしで自分で料理をしない人の中には、孤食はもちろん欠食、固食は普通だよという人もいるだろうが、家族であれ何であれ、人と同居していてコケコッコが当たり前というのは、なにかひどく荒んだ風景を見ているような気がしてしまう。いまどき、刑務所に入っていたってコケコッコはありえないだろうから、食事ではなく餌を口に放り込むだけでかまわないという生活観を持てる精神が、どのように正当化されていくのか私にはわからない。たとえそれが、皆が生活のために忙しく立ち働いているからという事情があるとしても。とは言うものの、我が家も同居する子供が二人とも社会人であれば、家族が一堂に会することはめったにない。ましてや一緒に食卓を囲むということは、月に一度もあるかないかである。休日が全員ばらばらということも大きな要因だが、平日の帰宅時間の微妙な誤差もあるし、誰かが外食してくるということもあり、なかなか全員で一緒に食事する機会はない。
料理が好きで食べることも好きであることが、私が休日の料理人でいる理由だろう。得意料理などというものはない。得意不得意が許されるのは、それが遊びの範疇にあるからであって、役割となれば失敗するわけにはいかないから、何でも美味しく作れなければならない。もちろん、しくじる可能性が強いからはじめから手を出さない手の込んだ料理はたくさんあるが、キビナゴから鰤ぐらいまでのすべての魚はどうにでも下ろせるし、牛や豚は無理でも七面鳥ぐらいまでなら丸ごとさばくこともできる。ところが、子供たちが社会に出て帰宅時間がまちまちになると、久しぶりに作りたい料理を思いついても、作れないということがしばしば起きるようになった。特に、作り終えてから食べるまでのタイミングが肝心な料理は作れない。プロとアマチュアの一番の違いは、するべきことを面倒くさがるかそうでないかだろうが、面倒くさがりのアマチュア料理人の私が作るものは、一度に全員分作って、多少時間が経っても美味しく食べられるものに限られてしまう。あるいは暖めなおしても味が落ちないものか。できたてに食べなければならないものはめったに作れないが、それでも、食事がコケコッコに崩れていくのは御免である。大晦日に、鳥の丸焼きのレシピを覚えてきた娘の一人が、それをダッチオーブンで作ってみたいというので、伊豆のアトリエの薪ストーブを使ってやってみた。下味を付けた鳥のおなかの中に、香味野菜やハーブをギュッと詰め込んで串で穴を閉じあわせ、ダッチオーブンの底にも屑野菜を敷き詰める。後はストーブの上でじりじりと蒸し焼きになっていくのを待つだけだ。本来、ダッチオーブンは屋外の焚き火などで使うのに向いていて、鋳物の蓋の上にも熾き火を載せて四方八方から熱を加えるといいのだが、家の中でそれをやると非難轟々となるのは目に見えているから、やりたくともじっと我慢する。それでも、厚さが5ミリほどもある鋳物の鍋の中の熱の廻りはかなり良好なようで、小一時間もすると美味そうな匂いが漂ってきた。仕上げは鳥の皮をパリッとさせるために、蓋をわずかに開けて水分を飛ばす。焼きあがったばかりのときの美味さは言うまでもないが、冷えた残りの肉も、あくる日薄く切ってパンに挟むと、これがなかなかいける。最後に残った骨は、大振りの鍋に入れてストーブに載せ、とろとろと何時間も煮詰めてから晒しで漉して、野菜と一緒にゆっくりと火を通してスープとしていただいた。
年に一度ぐらいは、こういう薄呆けてとろんとした時を過ごすものいいものだと思っていたら、玄関のあたりで人の声がする。初めは、正月休みに別荘に来た人が顔見知りと道で出会って話しているのかと思っていたが、それにしては話に途切れが無くどうやら一人でしゃべっている風である。ロールカーテンの隙間から外を見ると、誰もいない私の車の運転席に向かって男性の老人が話しかけており、感極まってボンネットに両手をついて泣いている。その様子から、どうやらアトリエから50メートルほど離れたところに永住している人のようだが、我が家に用がある風ではない。高齢者の介護付きマンションの仕事をしている下の娘が、あの話し振りの特徴は痴呆の老人のそれとよく似ているから、かわいそうに痴呆になったんじゃないのという。案の定、外に出た娘と妻に話しかける内容は、支離滅裂で明らかに痴呆の症状がかなり進んでいる様子だ。その老人と、犬の散歩の途中で言葉を交わしたことのある妻の話では、彼は、数年前までは時々夫婦で別荘に来ていたのだが、そのうち奥さんが入院したという。その奥さんが亡くなったのだろうか、いつの頃からか一人でそこに住んでいるらしい。普段はほとんど人気の無い山の中の別荘に一人で暮らし始めて、会話する相手もおらず凄まじい孤独に押しつぶされて痴呆になっていく。都会のマンション暮らしで、息抜きのためにささやかな別荘を持って、たまに家族や友人と訪れていた人たちが、リタイアした後で都会を離れて永住を始める。生きていれば、人はいつか独りっきりになるときが来る。高齢化が進行していくにつれて、目につかないところでこういうケースも増えていくのだろうと思うとなんだかやりきれない。もし、この老人が急な病に襲われたとしても、あの環境では誰もそれに気づかないだろう。管理事務所にそのことを連絡し、状況を把握しているのかどうかを確認したら、承知しているという。異変があったらすぐ対処できる手段を講じているのかどうかも気になったが、一人しかいない管理人は道路や水場の管理が主な仕事で、そこまでの態勢は持っていまい。息子や娘はいるのだろうか、状況を把握しているのならなぜ放っておくのか。彼がどんな境遇かは知らないが、若い頃からコケコッコの生活ではなかったことを、せめて念じたい。

