肉体の限界というやや大袈裟な言い方は、スポーツ選手の引退のスピーチでは定番である。実際、いつもぎりぎりのところで肉体的能力の限りをぶつけ合うのを仕事にしていたら、その能力がほんのわずか低下してももはや自分で回復不能と判断すれば、それを限界という言葉で表したくなるのだろう。そういうアグレッシヴな生き方をしている人はともかく、私のようにのんべんだらりと生きている人間には、肉体の限界などという言葉は一生口にすることはなかろうと思っていたら、ある日突然実感させられた。もともとかなり強い乱視と近視の持ち主で、やけ気味に金襴緞子などと面白くもないダジャレでごまかしていたが、数年前からじわじわと遠視(いわゆる老眼)が仲間に加わってきて、近場のものを見るときは頻繁にメガネを外して見るようにしていた。近視は、遠視と相殺し合うところがあるのか、裸眼でならば近くのものを見るのもそれほど不自由は感じないからである。ところが、昨年はかなりモチーフの細部まで見て描くことを要求される専攻の生徒を指導することになって、画面とモチーフとを交互に見るたびに眼鏡を掛けたり外したりするわけにもいかないから、我慢して掛けっ放しでいたら、夜、自宅に帰るころは連日のようにひどい頭痛に悩まされることになった。それも、目の奥から頭頂部にかけてずきずきと痛み、軽い吐き気を伴う類の頭痛だ。例えば、本を読むとかパソコンのモニターを見るとかいうのであれば、その時に眼鏡を掛け替えさえすれば済むことだが、若い生徒が絵を描いているところで、席を代わってその生徒の絵とモチーフとを見比べて形の狂いを確認してやるという作業は、だからもう無理だと悟った。限界である。そもそも、美大受験の予備校の講師というのは、美術大学の学生の特技を生かしたアルバイトとしては悪くない仕事ではあるかもしれないが、還暦近いジィサマがいつまでもやることではあるまい。今年度いっぱいで、直接生徒にアドバイスする仕事から降りますと春に宣言して、やっと少し楽になれるかと思ったら甘かった。

私に代わって新しく指導にあたることになっている講師に生徒指導の引き継ぎの算段をして、手始めに春の講習会からいろいろと経験を積んでいってもらおうとしていたら、他の仕事が舞い込んできた。目が駄目ならせめてろくでもない頭ぐらい使えという、雲の上のひげ面の誰かさんの思し召しだか何だか知らないが、ある所のCI(コーポレート・アイデンティティー)構築にかかわる仕事をすることになってしまった。クライアントのオーナーには、ああしたい、こうしたいというイメージはもちろんあって、しかもかなり強い思いを反映した言葉として口から溢れてくる。それに耳を傾けながら言葉の裏に隠れているアリバイを探す。それがきちんと捉まえられなければ頓珍漢な提案しかできないだろうし、ましてやイメージを具体的なものの形に置き換えていくことは不可能だからだ。理解も共感もできないことに手を貸すことはできないから、抽象的に語られるいくつものイメージ同士の横のつながりから、動機と手段と目的とをできるだけ正確に理解しなければならない。理解できるということと共感できるということは、もちろん違うが、この場合は、何よりも理解できるかどうかということが重要で、共感は、仕事を挟んだ彼我の必要な距離感を見失う危険があるから必要ではない。最初の難題は、法人の名称の提案だった。これから先、数え切れないほどの数の人の口に上り、耳に入り、目に触れることになる名称がきちんと作れれば、それに続くさまざまなものの形にイメージを統合していくことができるからだが、これがまさに雲をつかむ様な作業である。たまたま近くにいた何人かに、何でもいいからアイデアを出してくれと頼んでみたが、人には誰でも得意不得意というものがあり、どうも今ひとつピンと来るものが出てこない。こういうときは同じ道筋で何度考えても、むなしくバリエーションが増えるだけだから、言葉の原っぱの掘り返し方をどんどん変えていくしかない。結局、何とかひねり出したものの中にこれから磨いていけばものになりそうなものが見つかったが、以来、このろくでもない頭はずっとフル回転である。

作品作りも同じことだが、ものを作る仕事では終わりをどこに設定するかが難しい。ラフなプランから始めて、視点を変えて何度も検証しながら作り込んでいくと、細部が次第に固まっていって全体にある種の飽和点がやってくる。そこを終わりと決めてしまえば楽なものだが、実際にそれで終わらせてしまったものには、あちこちにひと目では目につかない隙間が隠されているものだ。では、その隙間を一つひとつ見つけて埋めていけば完成かというと、そういう詰めは完成にはつながるが完全には程遠い結果しか生まない。大体、人が作るものに完成や完全なんかあるのかいといえば、もちろんそんなもの無いに決まっているが、作り手がそれを言ってはいけない。言えばただの開き直りにしかならない。終盤に差し掛かってきたときに必要なのは、見落とした隙間を埋めることではなくもう一度最初に着手した時の視点に戻ることで、そこから見直すことができればもうひと揺さ振りかけることができることが稀にあるのだ。それで終わりかけていたものが息を吹き返して化けることもあれば、やはり駄目なこともある。もうはまだなりまだはもうなりというのは相場師の言った言葉なのかもしれないが、作っているものがまだなのかもうなのか、確かなことはいつまで経っても私には判らない。