E・ホールという文化人類学者の著書に、「かくれた次元」というのがある。30年足らず前に初版が出たように記憶しているが、たぶん今でも大きな書店には置かれていると思う。心理的な事柄と肉体的な事柄との相関関係を解き明かす鍵となる概念に、知覚の文化的距離とでもいったらいいのかもしれないが、プロクセミックスという造語を当てはめて説いている。人と人との間に生まれる物理的な距離を「密接距離」「個体距離」「社会距離」「公衆距離」の4段階に分類し、文化によるその距離の違いと文化の特質の違いを結び付ける。はらわたが煮えくりかえるとか肝を冷やすとかいう表現には、単なる隠喩で片付けられない要素があるという解釈がとても新鮮で、当時、その考え方にかなり影響を受けたのか、展覧会のタイトルにそのプロクセミックスという造語を借用した記憶がある。ところで、体の一部を使った目先や足元という近接相を示す言葉は、ネガティヴな使い方をされることがある。目先のことに囚われてばかりいるとか足元に付け込む、などという風に。逆に、遠距離相にまつわる言葉だと、比較的ポジティヴなイメージを連想させるものが多い。距離が遠くなると、何となく楽天的になれるからだろうか。ちなみに、宇宙飛行士になるのが夢でしたとか、オリンピックに出るのが夢でしたとかいうような意味では、私は夢など一度も持ったことがない。将来これこれの人になりたいから、そこから逆算して今はこれをやった方がいいだろうという選択の仕方には、どうにも馴染めないまま生きてきたし、今でもそれは変わらない。その時々に出合ったことに対処して、そこから派生してくることから、学べるものは学び無視するものは無視し、解り易いけれどつまらないものは捨てて、解り難いけれど気になることにはこだわる。目先にあることを棚上げにしないで足元に転がっていることを無視しないでいると、胸を張ってまっすぐに遠くを見つめるどころか猫背でちまちまと手元を見ているだけだから、確かに見た目も悪かろうが、これが私のスタイルなのである。

子供の頃、大人から聞かれる一番厭だった質問は、将来何になりたいのかというやつだった。将来の夢とか大人になったらどうしたいとか、そんなタイトルで作文書かせられたり、卒業記念の寄せ書きに書くように云われたりしたことが何度もあったが、そんなことわからないよというのが正直な答えだった。子供の毎日の生活のリアリティーには、遠い先のことを本気で想像することなど、ほとんど入り込む余地など無いのが普通なのではないかと思う。何かに夢中になっているときにも、もっと上手くなりたいとかもっと長い時間やりたいとか、そういう気持ちは強くあっても、それを自分の将来の仕事と結び付けてイメージするのは、たいていは大人の誘導尋問の結果である。そういう質問に答えられる程度の知恵がついたころには、子供は、どう答えれば周りの大人が喜ぶかを知っているから、その期待に添うように答えようとするか、逆に、ちょっと驚かしてやろうと思って奇抜なことを答えるかのどちらかである。私は、ある時はお医者さんになりたいと答えたし、ある時は飛行機のパイロットになりたいと答えたが、実は、そんなものになりたいとは少しも思っていなかった。いかにも大人が喜びそうなことだと思ったから、そう答えたまでのことだ。スポーツイベントの会場で、将来は何になりたい?と、贔屓のチームのユニフォームを着た子供に、アナウンサーがインタビューしているシーンを時々目にするが、あの空疎な質問と答のやり取りを、下らないから止めろという人は制作側にはいないのだろうか。聞く方も答えるほうも、暗黙の了解の退屈なやり取りをしているに過ぎないのに。そういうお約束の挨拶のような中身のないやり取りが、どの時点からか大真面目なこととして扱われて、子供は無限の可能性を持っているとか、夢は必ず叶うとか、そんなことはないととっくに気づいていいような年になっても、半ば脅迫観念のようにそれを信じている人がいる。夢というものが仮にあるとしたら、それは実現しない可能性がほとんどであって、実現するのは奇跡のようなものなのだ。夢が大きければ大きいほど、それに近づくためには途方もない努力と失敗を繰り返さなくてはならないし、実現するには、それ以上に滅多にないほどの幸運に恵まれなくてはならない。どこかでそのことをちゃんと解っていて、それでもすぐに投げ出さずに努力するというのは大切なことだし、うまくいかなくてがっかりするぐらいはいいのだが、挫折するたびに失望していって自分に愛想を尽かしていくのは、馬鹿らしいから止めた方がいい。

子供の夢を全力で応援するというのが、最近の親の言葉の流行りだが、例えば親のような身近な大人というのは、むしろ、子供の前に最初に立ちはだかる高すぎない壁でいた方がいいのではないかと思う。賛成はしないけれどどうしてもやりたければ邪魔はしない、ただし結果は自分で受け止めろというのが、子供に対する唯一の自由の与え方のような気がする。挫折なんてありふれていることなのだということを教えようとせず、いつか夢は叶うよというきれいごとを信じさせるのが愛情だという風潮は、いつ頃できたのだろうか。そんな砂糖ぐるみの嘘を社会が共有しているのは、大人の無責任さの故だろう。あれが駄目ならこれ、これが駄目ならあれと、延々とチャンネルを変え続けるように環境ばかりを変えていくのを自分探しと呼んだり、人を傷つけるなということを教える代わりに、当たり障りのない人付き合いの模範を示したりする。大人が嘘を吐き続ければ子供もそれを真似る。面と向かって話をすると誤解されるかもしれないから、携帯のメールで相手を傷つけないようにコミュニケーションするという子供が急増しているという。人間関係について大人が教えた嘘の吐き方の見事な成果である。