目が欲しがるという言い方がある。満腹なのに、目の前にあるものをまだ食べたがることを言う。こういう欲求過多の状態は食欲だけに見られるのではなく、あらゆるものごとに対して見られることで、まさに人間の浅ましさそのものとも言える。大量に食べる、大量に飲む、大量に買う、大量に使う。最近私は、そういう大量に何かをするということが皆目なくなった。拡大路線の歪みがあちこちで露呈したことから、社会は、縮小傾向をむしろ是認する方向に価値観が変わってきている。量より質という言葉に疑念を挟む余地はないと考えられているから、あらまほしきことのように見えなくもないが、実は、向う見ずなことをやれる体力が無くなってきたということなのではないか。

昔、大きいことはいいことだという歌詞の、チョコレートのコマーシャルソングがあった。高度成長期を象徴するような文句で、さすがに今は手放しでそういうことを言う人はいない。ものやお金は、持ちすぎると散らかるばかりだから、少し足らないくらいが一番いいのだが、高度成長期は、ものもお金も多ければ多いほどいいという風潮があった。誰もが、お金が無いばかりにやりたいことが出来ないと考えていて、そんなものはお金さえあればできることに過ぎないと考える人は少なかった。質の向上を求めるのは、ある意味時代の要請でもある。生産現場では、少品種大量生産から多品種少量生産へと体制がシフトされ、品種ごとに付加価値を付けようと差別化が模索されている。勢い余って、余計なものばかりアプリケーションとしてくっ付けるという傾向はあるものの、実生活で質の高さに関心が向くということは悪いことではない。ただ、社会はそれでいいのだが、美術までこじんまりしてもらっては困るのだ。過剰さという、場合によっては忌み嫌われることが、美術にとってはとても魅力的であることは古今東西珍しいことではなく、質の高さもさることながら、圧倒的な量につながる制作の積み重ねが生み出す力強さは掛け替えがない。一生懸命にとか熱心にではなく、熱狂的にやり続けることでしか見えないものがある。一般に、私たちは美術館や画集で画家の作品のごく一部しか見ることができないために、限定的な数の作品からささやかな、あるいはとてつもない質の高さを感じることはできても、制作された膨大な量の全体を実感できる機会はほとんどない。それは、例えばスポーツのビッグゲームで、プレイヤーのファインプレーを見るのと似ているかもしれない。あれは、実際にプレイヤーが日々積み重ねていることの、0.1%にも満たない短い時間のパフォーマンスなのだから。いつの頃からか、勉強だろうと何だろうと、あらかじめそれをする理由を理解させてから取り組ませるべきだと言われるようになった。訳もわからずひたすら詰め込むというやり方は良くないと。そんな馬鹿なことはない。理由も何もなく、明らかに自分の中で起きているわずかな変化に興奮し、その変化が引き続き起きることへの期待だけで、熱狂的にものごとに取り組むことができなければ、何も育てられない。本当に自分に必要な筋肉が何かを解るまでは、好き嫌いを言わず何でも大量に食べて、贅肉でも何でもいいからしっかりと身に付けてブクブクに太ればいい。たっぷりと肉が付いたら、そこから、長い時間をかけて、懸命に、不要なものを削ぎ落としていけばいいのだ。ほとんどすべての場合、出来ないのはやり足らないからで、それ以外の要素など、実は、あるようでない。出来るのが早いか遅いかは大した問題ではなく、自分に必要な経験の積み重ねが十分に多いかまだ少ないかの問題だ。傍目にはそれほどの量を経験しているとは見えないにもかかわらず、易々と何かをやってのける者がいるというのはただの都市伝説にすぎず、彼もしくは彼女は能力の高さに比例した量を必ず積み重ねているものだ。それをこれ見よがしに人前でやっていないというだけのこと。量を棚上げして質を問題にしても詮方無い。

学生は学生なりに、大人は大人なりにルーティーンとなっている毎日の生活に時間を取られる。好きな時に好きなことがやれるという人は滅多にいない。そんな中でも、自分だけの個人的な時間が持てないという人も、またいない。忙しい忙しいといっても、恋人と過ごす時間が持てないほど忙しい人はこの世に一人もいないのだ。その、個人的な時間の抱え方の違いが、積み重ねられる量の違いに決定的な影響をもたらす。画面に向かって手を動かせなければ作品が作れない訳ではない。それどころか、物理的に制作する行為は制作の最終段階と考えるべきことで、それは何度も自分の中で制作された後の話だ。せっかくひとりになれる時間なのだから、そんな時くらい美術のことはきれいさっぱり忘れて、のんびりしたいと考えるくらいしか興味が無いのなら、美術など手を出さない方が身のためかもしれない。だって美術は、生産ではなくて消費なのだから。